心療内科のアドバイスに従い、僕は自宅療養でうつ病と向き合うことを決心した。 休職初日は七時前に目が醒めた。 昨日までなら、とっくに職場で仕事の準備にかかっている時刻だった。本来の始業時刻の2時間だ。暖房もかかっていない社内はひどく寒い。それ…
時はさらに過ぎ、僕はいつのまにか中堅社員になっていた。 同期の大半は管理職に出世していた。役員クラスを狙って動きだす者も少なくない。いまだ平社員の僕から見れば、すべてが遠い世界の出来事だった。 とりわけ辛かったのは名刺交換だった。白髪も増え…
精神的な失調を自覚するようになって以来、僕は心理学やセルフカウンセリングなどの書籍を読み漁るようになった。 その過程で知ったのは、精神医療とは概念の異なる心理療法の存在だった。 日々のストレスが限界にきていたにも関わらず、僕は精神科で治療を…
入社して何年も経つと、大卒の同期のなかには職制へ昇格する者も出始めた。落ちこぼれの僕には縁のない話だ。高卒の先輩の中には「そのうちお前もどんどん偉くなって、俺たちを顎で使うようになるんだろうな」などと冷やかす人もいたが、むろん本気でそんな…
結局、転職は叶わなかった。退路などないことを悟った僕は、つらさに耐えながらも現職にしがみつく道を選んだ。 だが、いくら努力してもミスは減らない。仕事は遅い。要領も悪いのも相変わらずだ。そのたびにたくさんの人に迷惑をかけるし、怒られる。だから…
醜態を晒した研修の日々がやっと終わった。確かめた訳ではないが、評価はたぶん同期で最下位だったのではないか。僕は試用期間で会社から追い出されることを恐れたが、さすがにそれは杞憂に終わり、本社営業部への正式配属を告げられた。 直属上司の付き添い…
バブルの真っ盛りだった80年代後半の4月、大手企業に就職した僕は、社会人としての第一歩を踏み出した。 入社時に着ていた背広はオーダーメイドの三つ揃えだった。服に無頓着な僕を心配した親が、お金を振り込んでくれた上に、「そんなにすごい会社に入るん…
大学への進学が決まった僕は、親元を離れてひとり暮らしをすることになった。 念願の東京暮らしと言いたいところだが、大学があるのは都と隣接する某県の某市だった。まあ、電車のふた駅先は東京都という立地ではあるから、感覚的にはほとんど「上京」と変わ…
高校を卒業したら、東京の美術大学へ進みたい—— 日曜日の午後、僕は自分の意向を思い切って両親へ伝えた。 たちまち全身に緊張が走った。言うが早いか、即座に猛反対されると思ったのだ。それでも僕の決意は硬い。口論になったら徹底的に受けて立つ覚悟を決…
高校2年生ともなると、誰もが将来の進路で悩むようになる。僕もそろそろ受験を考えなければならなくなったが、「東京へ行きたい」という漠然とした思いしか浮かんでこない。将来に備えて何かを身につけようとか、じっくり専攻科目に取り組みたいとか、そんな…
前後して申し訳ないが、時計の針を高校入学の頃に戻させていただく。 中学時代の地道な筋トレが功を奏し、僅かながらも運動能力の向上に成功した僕は、高校へ上がると弓道部へ入部した。もちろん、これまでのスポーツに対するコンプレックスを払拭するためだ…
——高校へ行ったら、自分はきっと生まれ変わってみせる—— 中三までの惨めな日々との決別を誓って、僕は共学の県立高校へ進学した。ここで人生を変えられなかったら、きっと死ぬまで後悔することになる……何とも青臭い思い込みだが、当時は真剣だった。 同級生…
中学に上がると、僕にもそれなりに友だちができるようになった。漫画やプラモデルに出会ったことで、何かに打ち込む喜びも覚えた。だが、クラスの女子との軋轢はますます悪化の一途を辿り、何をやっても嫌われ続けることになる。 初めて異変に気づいたのは、…
小学校の高学年になると、僕は県立大学付属中学校の受験を目指して猛勉強を強いられた。平日はもとより、日曜祭日も母親が付き添い、朝から晩まで机に縛りつけられるのだ。子どもらしい娯楽は取り上げられた。楽しいはずのゴールデンウィークや夏休みも犠牲…
あまたの例外はあるものの、発達障害のある人たちの中には、極端に異性にモテないケースがあるように思う。 理由はいくつも考えられる。まず、発達障害の多くはいわゆるオタクだ。趣味はたいていマニアックだから、話題を共有できる相手は限られている。だか…
両親のことを書く前に、小学生の頃の成績にも触れておく。 ADHDの大きな特性として、好きなことには尋常ならざる集中力を発揮するが、嫌いなことには見向きもしないというのがある。こと勉強に関しては、これは僕にも当てははまることだった。 といって…
まず、ここで自分のことを詳しく書いておこう。 僕は現在55歳、独身のひとり暮らし。30年務めた会社を訳あって辞め、いまは福祉職員として働いている。夜勤を伴う仕事のおかげで体調は悪い。特に突発的な目眩は厄介で、ときには何時間も動けなくなったりす…
いまから87年前のこと。 東京・乃木坂の裕福な家庭に、ひとりの女の子が生まれた。 彼女は幼少の頃から変わっていた。入学先の小学校では教室でおとなしくしていることができず、毎日のように迷惑行為を繰り返した。机のふたをやかましく開閉したり、窓辺…