sonicstepsのブログ

トットちゃんが妬ましい。エジソンを目指すとかあり得ない。 一部の成功者らの美談はさておき、多くの当事者にとって、発達障害はやっぱりつらい。 おまけに憎い。何よりそいつはかけがえのない人生を奪った元凶なのだ。 だけど……それでも僕らは生きてゆく、終わることのない絶望の毎日を。

僕は50過をぎても発達障害をやってる冴えない中年男です。エジソンやジョブスがどうかは知りませんが、僕自身にはさしたる個性も才能もなく、人生の敗残者として悶々とした日々を送っています。このブログで取り上げる発達障害者とは、一部メディアが持ち上げるような「障害を素晴らしい個性へと開花させた成功者」のことではありません。僕と同じく底辺を這いずる圧倒的多数の当事者たちに捧げるものです。

ADHDとして生きるということ②・両親との関係

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両親のことを書く前に、小学生の頃の成績にも触れておく。

 

ADHDの大きな特性として、好きなことには尋常ならざる集中力を発揮するが、嫌いなことには見向きもしないというのがある。こと勉強に関しては、これは僕にも当てははまることだった。

 

といっても、成績が本当に「ずば抜けてた」といえるのは、理科の一科目のみ。これはやはり父親が医者だった影響が大きいと思う。子ども向けに書かれた「人体のしくみ」みたいな図鑑を読むのは大好きだったし、生き物の生態にも興味を持った。昆虫の飼育もよくやったが、死ぬと標本にしたり、ときには解剖して体内の構造を調べたりもした。(当時は、駄菓子屋で「昆虫採集セット」という怪しげな学習教材が売られており、防腐剤やピンセットなども揃っていた)

 

理科のように毎回「5」という訳にはいかなかったが、算数も平均以上の点数は取れていた。反面、苦手だったのは暗記物だ。だから社会科の点数が特にひどい。おまけに授業がつまらなくて集中できない。ただし、第二次世界大戦の話だけは別で、授業がこの時代まで進んでくると、突然テストの点数が跳ね上がった。当時の僕は、現在でいうところの軍事オタクの典型だったのだ。だから「日本が戦争に負けたのはいつか」のような初歩的な質問に、クラスの誰もが答えられないのが信じられない。調子に乗ったあげくに、「もしも憲法九条さえなければ、僕はこの知識を活かして軍隊に入りたい。ソ連が攻めてきたら戦うんだ」などと、運動音痴も忘れて妄想したものだ。

 

国語の成績も悪かったが、こちらは暗記とは別のマイナス要因があった。国語のテストの定番として、文章を読んでから「このときの主人公の気持ちはどうだったのか、次のうちから選びなさい」と問われるものがある。選択肢は五つくらいあるのだが、明らかな不正解を消し込んでゆくと、最後に正解の候補がふたつほど残る。そこで迷いに迷って「こっちだ」と解答を書くのだが、正解は必ずと言っていいほど「僕が選ばなかったほう」なのだった。これには困った。暗記物ならひたすら暗記に努めれば何とかなるのだろうが、「主人公の気持ちが分かるようになるための勉強」なんて、どうすればいいか見当もつかなかったのだ。こうして僕は、国語の授業はもとより、児童文学を読むこと自体が嫌いになってゆく。

 

「でも、ちょっとの苦手科目があるなんて当たり前だよ。多くの小学生がつまずく算数なんかができたんだから、さほど気に病むことでもないんじゃないの……」と、ここまで読んできた人は思うかもししれない。

 

ところがこれにはとんだカラクリがあった。

 

実は僕の母親は元教師だった。さらに母の両親、つまり僕の祖父母も元教育者の大物で、引退後も自宅で学習塾をやっていた。この塾へ週何日かは通わされたし、塾のない日は母親がつきっきりで勉強をみていた。他の同級生らは自力で宿題や予習・復習をこなしていたのに対して、僕は家に帰っても自分専用の教師が面倒をみてくれていたという訳だ。これで他の子と成績を競い合うのだから、完全な反則ではないか。

 

「うちの 子はよそとは違う」というセリフを、父や母、祖父母らは頻繁に口にした。たとえば夏休みの宿題などは、「普通の子」が一か月かかって終わらせるところを半月でやるのが「うちの子」なのだという。残りの半月は、大学の付属中学への受験対策にあてなさいと言われたが、実行できずに大いに両親を落胆させた。

 

夕食が終われば勉強を強いられるため、他の子どもが観ているテレビのバラエティー番組などまったく知らない。アニメや特撮番組を観るのも嫌がられ、観ている脇から「小学〇〇年生にもなって、こんな幼稚なのが好きなのか」とネチネチ言ってくるから、楽しくも何ともない。ただし、同じアニメでも「カルピス劇場」は教育的だがら大いに結構……といった具合に、いちいち「うちの子」にふさわしい番組を選別された。おかげで、クラスの友だちがテレビ番組の話で盛り上がっていても、何を言っているのか分からない。流行歌にも極端に疎くて、修学旅行のバスのなかで、僕だけが歌を歌えないこともよくあった。

 

こんないびつな家庭環境が、子どもの生育に良い影響を与えるはずがない。いつの間にか僕は「親が見ていないと勉強できない子ども」になっていた。机に座っていれば、母親がその日の課題を段取りよく与えてくれるために、自分で参考書を活用したり、スケジュールをたてたり、効率的な学習法を組み立てたりといった能力がまったく育っていなかった。だが、当時は母親も僕もそのことに気づかず、成績はすべて自分の実力と勘違いして、通信簿に一喜一憂していた。そのツケをたっぷりと払わされるのは、やがて僕が高校へと進み、中学教師しか経験していない母が勉強を教えられなくなって以降のことである。

 

それでも主要科目はどうにかなった。体育と並んで評価を下げていたのは、むしろ音楽や図工、家庭科などの周辺科目だ。なにしろADHDは物忘れが激しい。だから「明日の家庭科では裁縫箱を使うから、必ず持ってくるように」みたいな連絡をことごとく忘れてしまう。もし算数で定規を忘れたとしても、下敷きの端を代用すればどうにか切り抜けられるのだが(実際、そのようなことはよくあった)、家庭科や図工は道具と材料がなければお話にならない。そのために、特に図工の教師は僕を目の敵にした。

 

担任が絵や工作を苦手としていたのか、小学5~6年の図工はこの教師が受け持っていた。(さらに最悪なことに、こいつは体育の授業の一部も兼任していた)こいういう科目の評価は採点者の主観に左右されるから、通信簿には毎回「図工2」がつけられることになる。低評価の原因は道具の忘れ物だけではない。僕は工作で何かを組み立てるのがやたらと遅くて、決められた日数までに完成させることがどうしてもできなかったのだ。こうして図工教師に嫌われた僕は、授業中だけでなく、廊下で目が合っただけでも「何をぼさっとしてるんだ」などと嫌味を言われるようになってゆく。現代であれば、こんな奴は間違いなくマスコミの餌食となるが、昭和40年代の学校の権威は絶大だった。

 

さて、前回書いたような問題行動に加えて、通信簿に「2」をいくつも取っくてる僕を両親は恥じた。教師の前でことごとく醜態をさらすのが耐えられなかったのだろう。だから、とにかくうわべだけでも「優秀な息子」をとりつくろうとする。

 

例えば夏休みの宿題の工作がそうだった。手伝いと称して、両親が作品のほとんどを作り上げてしまうのだ。結果、誰がどうみても子どもが作ったとは思えないような代物が出来上がってしまう。僕が極度に不器用であることはクラス中に知れ渡っているのだから、こんなものを提出しても恥をかくだけなのが分からないのか。(20年前に出された名著「引きこもりカレンダー」によれば、作者の勝山実氏も少年時代に同じ目に遭っていたことが書かれている)

 

作文でも同じような「手直し」をされた。当時の僕は、文部省(当時)の推奨する児童書の類にどうしても共感できず、読書感想文で「この作者の主張は間違ってる」とか「こうすればもっと面白くなる」などと平気で書いていた。別の作文では「国語の教科書なんか読むより少年ジャンプの漫画の方がためになる」とまで言い切ったが、このときはさすがに教師も呆れ、母親を職員室へ呼びつけている。こうして僕の作文は両親の検閲を受けることになった。文体も内容も突然変異を遂げた文章に、教師も思わず吹き出したことだろう。

 

両親、特に母親は僕のスポーツ嫌いも認めなかった。家には欲しくもないグローブやバットが揃えられ、近所の子どもがやってる草野球に参加しろという。むろん彼らにとっては迷惑以外の何物でもない。使ってもいない硬いグローブをはめて守備についても、お互い嫌な思いをするだけだった。こんな強硬策を行使したところで、生まれつきの運動音痴が改善されるはずもないのだが、それでも母親は諦めない。さらなる荒療治として、僕をボーイスカウトへ入隊させた。これがとどめを刺した。集団行動の取れない僕は、学校とは比較にならないほど嫌われ、手ひどいいじめを受けることになる。これにはさすがに母親も懲りたらしい。後日、僕に「あれは失敗だった」と打ち明けてくれた。

 

 

(以下、続く)

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