sonicstepsのブログ

トットちゃんが妬ましい。エジソンを目指すとかあり得ない。 一部の成功者らの美談はさておき、多くの当事者にとって、発達障害はやっぱりつらい。 おまけに憎い。何よりそいつはかけがえのない人生を奪った元凶なのだ。 だけど……それでも僕らは生きてゆく、終わることのない絶望の毎日を。

僕は50過をぎても発達障害をやってる冴えない中年男です。エジソンやジョブスがどうかは知りませんが、僕自身にはさしたる個性も才能もなく、人生の敗残者として悶々とした日々を送っています。このブログで取り上げる発達障害者とは、一部メディアが持ち上げるような「障害を素晴らしい個性へと開花させた成功者」のことではありません。僕と同じく底辺を這いずる圧倒的多数の当事者たちに捧げるものです。

ADHDとして生きるということ⑨ 大学受験

f:id:sonicsteps:20201115090103j:plain

高校を卒業したら、東京の美術大学へ進みたい—— 日曜日の午後、僕は自分の意向を思い切って両親へ伝えた。

 

たちまち全身に緊張が走った。言うが早いか、即座に猛反対されると思ったのだ。それでも僕の決意は硬い。口論になったら徹底的に受けて立つ覚悟を決めていた。

 

まあ、子どもが「美大へ行きたい」などと言い出せば、たいていの家庭では親子喧嘩となるのが関の山だろう。何より美大は倍率が高い。学費だって桁外れだ。さらには運よく受験に受かったところで、卒業後にその道で食べてゆける保証もない——

 

だが、僕の両親はまったく予想外の反応をみせた。

 

父親はしばらく考えたあとで、ゆっくりと頷いてくれた。なんだか「腑に落ちた」という表情だった。こうなると、母親はいつも父親の言いなりだ。自分からは何も言わず、ただ相槌をうつばかりだった。その態度の裏に、実はとんでもない本音が隠れていたのだが、その時点ではまだ知る由もない。

 

ともあれ、父親は拍子抜けするほどあっさりと美大受験を許してくれた。あの物わかりの悪い人物が、なぜ今回はこれほどの理解を示してくれたのだろうか。

 

いまではその謎を解く術もない。父親は交通事故で逝去してしまっているからだ。それでも思い当たることはいくつかある。

 

何より、父親には多少の絵心があり、ときどき樹木などをスケッチしたり、木版画をたしなんでいた。腕前もそれなりだったことを覚えている。同じ才覚を引き継いでいる息子のことを、実は密かに喜んでいたのだろうか。それとも学業が駄目なのを憂慮して、別の道に賭けてみようと考えたのか。

 

とにかくすべては動き始めた。僕はその週のうちに画材屋へ行き、油彩画と木炭デッサンの道具を一通りそろえた。とはいうものの、まだ初心者だから学生向けの安物ばかりで、キャンパスもごく小さなものからスタートする。ただし道具箱は胡桃製の贅沢なものを選んだ。「箱だけは安物は避けたほうがいい。筆やバレットは消耗品だけど、箱は一生使うものだから」という美術部員のアドバイスを受けてのことだった。

 

それから美術部へ入部した。弓道部には何も伝えていないままの転部だった。本来なら、運動部でこんな不義理は許されないところだが、顧問教師が趣味で絵を描く人だったことが幸いし、僕を応援するとまで言ってくれたのだった。

 

そして二年生の夏休み——

 

僕は東京のお茶の水にある美術学院の夏期講習を受けることになった。たしか二週間ほどのカリキュラムだったと思う。宿泊先は、本郷三丁目にある受験生向けの宿舎に決まった。親元を離れた場所で、こんなに長い期間を過ごす経験は初めてだった。

 

受講日の初日、僕は石膏デッサン用の大きなカルトン(画板)と画材を手に下げ、御茶ノ水駅に降り立った。目にする景観はみな独特で、小舟の行き交う神田川や、アーチ型をした聖橋の橋脚など、目にするものがいちいち物珍しかった。それにこの界隈は緑が多い。だから蝉がやかましい。そうした記憶のひとつひとつが、僕にとっては東京の原風景として焼きついている。何十年も経った現在でも、御茶ノ水駅辺りを歩くだけで高揚感が沸いてくるほどなのだ。

 

さて、意気揚々とアトリエに向かったのはいいが、肝心の絵のほうは序盤からつまずいた。

 

授業が始まって数時間で「ここは僕が来るところじゃない」と思った。初めて挑戦した石膏デッサンは、それほど難易度が高かったのだ。

 

最初に与えられた課題はビーナスの頭部の石膏像で、とにかくそっくりに描けという。そのためには、目鼻の形や大きさ、さまざまな膨らみや窪みといったものを正確に目測してゆく必要があるのだが、どこがどう狂っているのか、僕の描くビーナスはどんどん人間の顔からかけ離れてゆく。しまいには、とうとう完全な「バケモノ」になってしまった。

 

当然だが、講師の評価は最悪だった。というか、ほとんど指導らしい言葉もかけてくれない。「どうせこいつに何を言っても理解できないだろう」と言わんばかりだった。

 

アトリエには全国各地から美大志望者が集まっていたが、半分以上は浪人生だったように記憶している。明らかにハタチ過ぎとみられる受講生も多数いて、昼休みには喫煙コーナーが満員となった。僕は美術部の先輩に言われたことを思い出した。一流の美大を目指したかったら、二浪や三浪をするのは当たり前。東京藝大に至っては、十浪目にしてやっと合格するような強者も少なくない。美大とはそれほどハードルが高い難関であり、現役合格者など滅多にいやしない——それらの情報が誇張でも何でもないことを、僕はこの場で再認識させられた。

 

(ちなみに、現在では少子化による学生数減少のため、美大受験は当時ほどの難関ではなくなっているようだ)

 

浪人生のデッサンは当然うまい。だが、現役組にも基礎が出来ている者はたくさんいる。僕のような「バケモノ」を描いている者も皆無ではなかったが、それを慰みにするようではおしまいだ。気分を改め、二作目のモチーフに取り掛かる。そうだ、今度は上級者の描く手順をよく見て真似てみよう。それから石膏像をさらに凝視し、全体の起伏や形の変化、光と影とを把握しようと努力した。そうしているうちに気づいたが、人間の顔や体というものは、何と複雑な形状をしているものなのか。夢中になるあまりに、僕は授業が終わっても通行人の顔をいちいち観察するほどになっていた。だがデッサンは甘くない。努力も虚しく、二枚目、三枚目と続けて「バケモノ」を描いてしまう。

 

変化が現れたのは四枚目だった。講師の評価はもうひとつだったが、それでもいままで描いてきたものとはまるで別物の一作が出来上がった。絵というものは、このように突然うまくなることがしばしばあるのだ。大げさではなく「これ、本当に自分が描いたのか」と思えるような出来栄えだった。

 

満足感を味わいながら、僕は田舎へと帰郷した。実家で迎えてくれた両親も、「東京から帰ってきて逞しくなった」なんて言っている。ただし金遣いの荒さは叱られた。デッサンがなかなか上達しないストレスから、僕は所持金をゲームセンターにつぎ込み、「万一のための予備金」にまで手を出していた。このように「自分の衝動や感情を抑えられない」という性癖は、四十代になる頃まで人生のさまざな場面で頻発し、周囲に迷惑をかけることになる。

 

それはさておき——

 

夏休みが終わると、僕は新たな気持ちで高校の美術室へと向かった。東京で学んだデッサンのスキルを、これからどこまで向上させることができるだろうか。美術部には、僕の他にも美大志望者が数名いた。みんな東京や地元で夏期講習を受けてきたらしく、お互いのレベルの動向を気にしている。なかには「君が俺よりうまくなっていたら嫌だなあ」などと露骨に言ってくる輩もいた。

 

そういえば、東京の夏期講習でも似たようなことを言われた。なにしろ高倍率である美大受験では、誰かの合格は即自分が蹴落とされることを意味している。彼らがナーバスになるのは当然だった。三流進学校の雰囲気に染まり、のほほんとしている場合ではない。

 

周囲の視線を意識しながら、僕は美術室の石膏像に向き合った。講習を終えて初めてのデッサンだ。全体の形の取り方はうまくいった。ところが、そのあとがどうしてもうまくいかない。焦れば焦るほど目測が狂い、またしても「バケモノ」が出来上がってゆく。八つ当たりかもしれないが、周囲では「僕がうまくなったら嫌だ」と妬むライバルたちが、全員ニヤついているようにも思えてきた。どうしたんだ、こいつらに腕前を見せつけてやるんじゃなかったのか。

 

それから先は地獄だった。僕のデッサンは何枚描いても「バケモノ」を脱することが出来ず、そのまま秋が過ぎ、冬となった。一方で油彩画の方は少しずつ向上がみられ、特に色づかいや構図などを褒められた。だが、それだけでは受験に合格することはできない。ライバルたちはここぞとばかりに「来年になってもこんなレベルじゃ話にならない」などと脅しをかけてくる。

 

こんな心理戦に負けてしまうのも情けないのだが、僕は心が折れていた。これでは弓道部のときとまったく同じじゃないか。いっときは希望が垣間見えても、かならず最後はどん底にまで突き落とされる。そして、そこから這い上がることなんて絶対にできないんだ——

 

いまから思えばただのマイナス思考かもしれない。だが、多感な高校生にとっては、それをプラスのエネルギーに変えてゆくなど出来ぬ相談だった。弓道部の試合メンバー落ちという挫折体験は、その後何年も僕の心を呪縛し、逃避ばかりを誘発してゆくことになる。

 

絵を描いてばかりの毎日にも不安を覚えるようになった。受験に学業が関係なくなって以来、いわゆる主要科目の勉強はほとんどノータッチとなり、定期テストは「下がるがまま」に放置していた。こうなると、もう教科書に何が書いてあるのかも分からない。いったい自分は何をやっているのだろう。

 

ただし英語と国語だけは懸命にやった。美大では、絵画制作などの実技試験に加えて、英語と国語の学科試験も行われていた。絵のレベルが合格ラインぎりぎりであった場合、学科の点数が合否の命運を分けることもある。その逆転を狙ってのことだった。特に英語はもともと得意科目だったこともあり、一時の低迷を脱して成績を伸ばしていった。何枚描いても上手くならない石膏デッサンとは大違いだ。そうか。美術に比べれば、普通の勉強とはこんなに容易く努力が報われるものだったのか。

 

その後もデッサンが上達することはなく、三年生の春に、僕は美大受験を断念した。夏期講習の費用や東京滞在費、絵画の材料費などを合わせれば、お金だけでも数十万円をどぶに捨てたことになる。

 

父親はますます僕を軽蔑した。精神科の医師らしく、「お前のやることはいつも逃避と自己防衛だ」とフロイト心理学を持ち出して嫌味を言ったりもした。だが、母親は密かに僕の心変わりを喜んでいたようだ。父親には何も言えなかったが、実は息子が美術などという水物に夢中になっているのが我慢できなかったらしく、電話で誰かに「うちの子、結局はどんどんいい方向に変わっている」などと話しているのを聞いてしまった。この母の態度は、父の小言よりもはるかに屈辱的だった。だが何も言い返す権利はない。僕は生まれて初めてやりたいことをやらせてもらえたのに、その結果を出せない人間だということが確定してしまったのだ。

 

さて、問題はこれからの進路である。まともな勉強は英語と国語しかやっていない。そんな僕でも受験できるような都合のいい大学はあるのだろうか。

 

それがあったのだ。語学教育に重点を置いているその大学は、受験科目のほとんどが英語であり、他には論文を書かせるだけという類まれなところだった。活路を見出した僕は、教学社の赤本で過去問題を徹底的に分析した。出題傾向さえ分かれば、勉強方法はおのずと絞られてくる。これが都会の高校生であれば、大手の受験予備校に通って傾向予測を教えてもらうのだろうが、僕は自力でそれをやった。暗記や反復学習は苦手でも、こういうことには我ながら頭がよく回る。ADHDの本領発揮だった。

 

こうして僕は、その大学に現役合格することができた。

 

進路を変更してからは美術部にも顔をださなくなり、絵を描く場は授業の美術のみとなった。そこでふたたび石膏デッサンをやることになったのだが、モチーフは東京で初めて描いたのと同じ、あのビーナスの首像だった。受験にこだわることなくのびのび描いたデッサンは、今度こそ「本当に自分が描いたものなのか」と驚くレベルに仕上がった。美術部の元ライバルは「このデッサン、どの部分もタッチが同じなんだよね」と悪態をついたが、教師は「A」をつけてくれた。同じ評価を得たのは、同学年でも限られた者だけだ。繰り返すが、絵というのは突然うまくなることがあるのだった。

  

続く

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 大人のADHDへ
にほんブログ村

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 成人発達障害へ
にほんブログ村

 

外部リンク 

心理オフィスK

人間関係・心の病・トラウマを解決するカウンセリング

 https://s-office-k.com/?amp=1