sonicstepsのブログ

トットちゃんが妬ましい。エジソンを目指すとかあり得ない。 一部の成功者らの美談はさておき、多くの当事者にとって、発達障害はやっぱりつらい。 おまけに憎い。何よりそいつはかけがえのない人生を奪った元凶なのだ。 だけど……それでも僕らは生きてゆく、終わることのない絶望の毎日を。

僕は50過をぎても発達障害をやってる冴えない中年男です。エジソンやジョブスがどうかは知りませんが、僕自身にはさしたる個性も才能もなく、人生の敗残者として悶々とした日々を送っています。このブログで取り上げる発達障害者とは、一部メディアが持ち上げるような「障害を素晴らしい個性へと開花させた成功者」のことではありません。僕と同じく底辺を這いずる圧倒的多数の当事者たちに捧げるものです。

ADHDとして生きるということ⑯ 急浮上、そして転落  

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時はさらに過ぎ、僕はいつのまにか中堅社員になっていた。

 

同期の大半は管理職に出世していた。役員クラスを狙って動きだす者も少なくない。いまだ平社員の僕から見れば、すべてが遠い世界の出来事だった。

 

とりわけ辛かったのは名刺交換だった。白髪も増え、下腹も目立ちはじめた中年男から、何の肩書も付いていない名刺を渡された相手はどう思うだろう。考えるだけでも逃げ出したくなってくる。

 

このままではいけない。遅すぎるかもしれないが、まだやれるだけのことはやってみよう。前回でも少し触れたが、そんな風に思えるようになったきっかけは人事異動だった。

 

端的にいえば、この異動のおかげで仕事は楽になった。「そんな仕事しか任せられない」と烙印を押された可能性もあったが、落ち込んだのは最初だけだった。「給料を削られることもなかったし、楽に越したことはない」と居直ることにしたのだ。それに、この部署では「僕は受け入れられている」という実感が得られた。仕事のあとの一杯にも誘ってもらえるし、上司の受けも悪くないようだ。僕は張り切って仕事にあたった。

 

とりわけ僕のパソコンのスキルは重宝された。部のメンバーには年配者が多く、すでに普及していたインターネットもいじったことがない人がほとんどだったのだ。

 

この自己アピールのチャンスを逃す手はない。何しろ楽な部署だったので、午後3時頃には仕事がなくなり、手が空いてしまう。その時間を利用して、僕はエクセルやワードのスキルアップに精を出すことにした。ネットで紹介されているさまざまな関数や機能、テクニックを調べ、日常業務に応用すべく頭をひねる。苦労した甲斐あって、自信作といえるフォーマットがいくつも完成した。特に簡単なマクロを使った受注集計表は好評で、同僚や先輩も「使いやすい」と言ってくれる。他部署からもコピーを頼まれた。

 

僕の株は上がっていった。そして、さらに決定的ともいえる快挙を成し遂げる。全社を挙げた新規事業のアイデアの公募に、僕の書いた提案が採用されたのだ。

 

駄目社員の僕ではあったが、入社以来、常に褒められていたことがふたつだけあった。ひとつは会議の場での発表の仕方。もうひとつは文章力である。学生以来、僕は一貫して文章を書くことに生きがいを見出してきた。会社帰りに文芸サークルへ通ったり、ミニコミ誌を出したこともある。さまざまな場で書いてきたものを合計すれば、原稿用紙で千枚は超えるだろう。誇張ではなく、私生活の大半を費やしてきたと自負している。

 

長年蓄積された文章力のおかげで、僕は幸運を勝ち取ることができたらしい。だが、経験豊富な企業人の方であれば、ここで疑問を感じるかもしれない。会社が開催する「企画アイデア募集」のようなイベントなんて、実は単なる出来レースではないのか……と。たしかに、表向きには「公正な選考をする」とか言いながらも、この手の受賞候補は初めからエリート社員に絞られていることが多い。どんなに優れた内容でも、日頃から評価の低い社員は、それだけで選考から外されてしまうのが現実なのだ。

 

にもかかわらず、僕に限ってなぜこんな奇跡のようなことが起こったのか。

 

理由はその選考方法にあった。慣例と異なり、今回の選考者たちは書き手の氏名や部署名が分からない状態で企画書を渡され、先入観なしで内容を精査することが徹底されたのだという。最初にそれを聞いたときには、社員の誰もが「嘘つけ」と勘繰ったが、どうやら本当に実行されたらしい。僕の受賞が何よりの証拠だった。

 

ほどなくして、この出来事はさらにあり得ないような逆転劇を生み出すことになる。

 

企画が採用され、社内表彰を受けてから一年と経たないうちに、僕は支社全体の営業促進を総合管理するセクションへの異動を告げられた。底辺の仕事に身をやつしていた者が、いきなり他の営業員を監督する立場へと栄転したのだ。

 

もちろん、こんな例外的な異動が、単に企画が表彰されただけの理由で実現した訳ではない。背景には、僕の小まめな顧客対応や生真面目さを評価してくれた一部職制の方々の力添えがあった。仕事をきちんとやっていれば、見る人は見てくれている……そんな綺麗ごとは一切信じなかった僕も、このときばかりは「会社も捨てたものじゃない」と思い直すようになった。

 

一方で、冷ややかな視線を向ける者も多かった。頭から「あいつにあんな仕事が出来る訳がない」と決めつけてかかる連中だ。なかには、面と向かって「嘘だろ」と嘲笑う輩もいた。殴ってやりたいほど頭にきたが、我慢した。会社中にそう思われても仕方がないことは、僕が誰よりもよく自覚している。すべてを挽回すべく、僕は新しい仕事に全力を注ぐことにした。

 

部署では僕の歓迎会を開いてくれた。会場は奥まった場所にある料理屋だった。店のレベルも高かったが、それ以上に驚いたのは出席者だった。前名誉会長のお気に入りで、将来の社長候補と目される人までが顔を出していたのだ。僕は心の底から委縮した。入社以来、ずっと雲の上の人と思っていた人と、まさかこんなに間近に対面するとは思ってもみなかったからだ。だが、酒が入り、ざっくばらんに話をしてみると、想像していたのとはまるで違う人間味のある人物だった。

 

社長候補者と酒席を共にしたことで、僕は「そういうポジションにやって来たんだ」という自覚を新たにした。

 

末端の営業員に過ぎなかった以前の自分は、無理難題ばかり押し付けてくる上層部が恨めしかった。だが、これからは彼らと同じ目線に徹しなければならない。当面、僕は各営業計画の進捗状況をチェックする仕事を任された。ミスなど論外の基幹業務だ。発達障害とかADDとか、そんな甘っちょろい言い訳を口にしている場合ではない。僕は発達障害である自分を「なかったこと」にして激務にあたった。

 

すでに中野区の住居から引っ越していたこともあり、高円寺のカフェにも西荻窪心理療法にも行かなくなっていた。好きな文章を書くのもおっくうだったし、心療内科のカウンセリングからも遠のいていた。残された趣味といえば、ひたすら大酒を飲むことだけだ。それでもかまわない。ADDとしての欠陥なんて、気の持ちようでどうにでもなる。そう信じ込むしか術がない。

 

だが、ADDや心の病はそんなに甘いものではなかった。

 

エクセルの操作には自信があった。だから売上進捗の作成など「どうにでもなる」と高をくくっていたのだが、いざ関わってみると、そこで伴うプレッシャーは想像以上だった。なにしろ、作成するのは社長や会長も目を通すような重要資料だ。まとめる数字は億単位だし、間違いは絶対に許されない。もしも計算式に不備があったり、ゼロの数をひとつ打ち間違えたりしようものなら、会社の経営判断を狂わすような事態にもなりかねないのだ。むろん、大抵はどこかで「おかしい」と気づいた者から指摘が入るが、その場合は会議に出ている営業部長や役員クラスが大恥をかくことになる。ある定年間近の課長などは、それが怖くてエクセルの計算機能が信用できず、算出された数字をソロバンで検算していたという。若い人は爆笑するかもしれないが、僕にはその気持ちがよく分かった。

 

前の部署では毎日定時で帰れたが、そんな生活は一変した。特に全社会議の直前などは地獄だった。出席する役員らのために、議題に合わせて必要な資料を準備するのだが、その議題というのが社長の気まぐれでコロコロ変わる。そのつど僕らはA3用紙で百枚以上にも及ぶ資料をダストシュートに投げ捨て、作り直しを強いられた。やっと決定稿が上がっても安心はできない。上からダメ出しが出たら、さらに内容を訂正しなければならないからだ。会社を出るのは誰よりも遅かった。

 

それでも間に合わないときは、始発に近い電車で出勤して続きを仕上げた。ようやくペーパーがまとまると、役員や部長クラスはそれらを抱え、会議室へと向かってゆく。だが、これで万事終了ではない。会議が始まって一時間も経つと、今度は秘書室から追加資料を求める電話がかかってくる。このように急な資料が必要とされるのは、たいていは会議の過程で想定外の問題が発覚したときだった。社長らが執拗に状況説明を迫っているのだ。だから通常以上に詳細で、かつ不備のないデータが要求されるのは言うまでもない。しかも事態は一刻を争う。こうしているあいだにも、該当エリアのトップは会議室で集中砲火を浴びながら、弁明用の資料を「今か今か」と待ち続けているのだ。

 

こんなことが毎週のように続いた。僕はプレッシャーに潰されそうだった。仕事は分からないことだらけなのに、とても周囲に質問できる雰囲気ではない。そんな余裕のある者がいないのだ。直属上司もその上の者も、僕よりもさらに時間に追われ、もっと苛立ち、事あるごとに叱責されている。まるで部署全体が抑うつ状態に陥っているようだった。

 

これまでの僕なら、ここで癇癪を起して周囲を唖然とさせていたことだろう。だが、いまは曲がりなりにもエリア全体をまとめ上げる立場だ。だから懸命に耐え続けた。我ながら、自分のどこにこれだけの忍耐力があったのかと感心するほどだった。そして周囲の期待に応えるべく全力を尽くした。だが、能力のない者がいくら背伸びをしてもボロが出る。何度もチェックしているにもかかわらず、A3用紙いっぱいの表のどこかに不備が出てしまう。長年底辺の職に甘んじていたために、エリア全体の動向に疎く、説明内容に矛盾が出てしまうこともネックだった。

 

最初のうちは「慣れていないから」と見逃してもらえた。が、仏の顔にも限度があった。僕のレベルのあまりの低さに、一部の部長や次長、課長クラスまでが不信感をあらわにするようになった。そんなときに叱りつけられるのは僕ではなく、もっと上の人間だった。自分のせいでみんなが罵声を浴びせられる光景は、いま振り返ってもいたたまれない思いがぶり返してくる。

 

能力不足を補うために、早朝出社とサービス残業を限界まで続けた。仕事のあとは飲み屋で鬱憤晴らしだ。飲む量もペースもまともではないから、すぐに意識があやしくなってくる。そのままカウンターに突っ伏してしまうこともしばしばだった。こんなことを繰り返していれば、当然店の人からは嫌われる。そして、とうとうある小さな店から出入り禁止を言い渡された。ここの店主とは映画の好みなどで馬が合い、十年近くも懇意にして頂いただけに、ショックは大きかった。

 

帰宅するのは午前零時近かった。着替えずに寝入ってしまうこともしばしばだった。それでも2時間くらいで目が覚めてしまう。あとは眠りにつくことができず、明るくなったら早朝出勤の準備を始める毎日だった。典型的な睡眠障害だ。せめて休日だけでも熟睡しようとするのだが、意識すればするほど目がさえてくる。日中は頭痛や肩こりがひどく、目の痛みにも悩まされた。誇張ではなく身の危険を感じるようになった。

 

出世に直結するポジションというのは、みなこの苦痛に耐えられなければ務まらないということか。

 

僕はトップを目指して邁進するエリートの面々を思い浮かべた。狡猾な悪党ほど出世してゆくのは企業の常だが、素晴らしい人格者もたくさんいた。だが彼らは、ひとつ昇進するたびに、まるで別人のように人相が変わってゆく。この「偉くなると顔がきつくなる」というエピソードは社内のみんなが口にする「常識」であり、決して一部の例外ではなかった。

 

温厚だった人間がパワハラ上司に変貌することも少なくない。逆に極度の無口になってしまい、「あの人大丈夫かな」などと噂されているうちに、本当に入院してしまうようなケースもあった。このままでは僕も同じ目に遭いかねない。悩んだ末に、ふたたび心療内科へ通院することを決めた。

 

転居のため、お世話になった中野区のクリニックへ通うことは難しかった。やむなく代わりの心療内科を探したが、以前と違い、なにしろ今は帰りが遅い。ネットの検索結果を何ページもめくっているうちに、少し遠いが深夜でもやっているところを見つけることができた。

 

その日、クリニックへ着いたのは夜8時過ぎだった。番号札を渡されたが、カウンターを見ると受診待ちの人が20人近くいる。のちに知ることになるが、ここでは2時間、3時間待ちは当たり前だった。中野区のクリニックでは考えられなかったことだ。結局10時近くまで待たされてから診察室へ通された。こんな時間まで働いているせいかも知れないが、医者はずいぶんやつれた印象だった。姿勢が悪く、しゃべり方も弱弱しくて聞き取りづらい。まずい所へ来たとも思ったが、これだけ待たされたあげくに診療代だけ取られて帰るわけにもいかない。僕は事情を詳しく説明した。

 

医者は猫背で僕の話を聞いたあとで、ひと言「うつ病ですね」と診断を下した。ここまではおおかた予想通りだったが、次に発したひと言には驚愕させられた。唐突に「診断書を書くので明日から休んでください」と告げられたのだ。

 

むろん承諾できる話ではなかった。僕が懸命に拒否した結果、当面は薬物治療で様子をみようということになった。処方された薬はたいへんな分量だった。抗うつ剤としてはパキシルを服用することになった。この薬はのちに攻撃性などの副作用が明らかとなり、厚労省からも注意喚起がなされるようになるが、この時点では新世代の薬として期待されていた。

 

眠剤も処方されたおかげで、不眠は少しだけ改善された。だが、肝心の鬱状態のほうは劇的な変化はみられず、副作用に苦しめられてばかりいた。僕は治療に対する不信感を募らせていった。そもそも、あんな唐突な休職勧告をしてくる医者がどこまで信用できるものなのか。こうなると、彼の指導など一切守る気がしなくなる。特に受け入れられなかったのが酒の禁止だ。あの楽しみを取り上げられたら、精神的にますます追い込まれてゆくだけではないか。それでもアルコールが抗うつ剤の効き目を削ぐのは事実のようなので、たまに休肝日を設ける程度の努力はすることにした。

 

これではまともな治療になるはずがない。

 

職場では、僕はますます荒んでいった。癇癪だけはどうにか堪えていたが、相変わらず仕事の覚えは悪く、周囲の不満や不信感も膨らんでゆく。何よりつらかったのは、何の能力もない僕をエリート集団に推薦してくれた人たちが、間違いなく顔を潰されていることだった。この見込み違いのために、いったいどれほどの人たちが迷惑していることか。はっきりと希死願望を自覚するようになったのもこの頃だった。

 

死への誘惑と戦いながら、僕は独自にうつ病について調べ始めた。知れば知るほど、自分に当てはまることばかりだった。いくら薬を飲んでも、メンタルを疲弊させている直接要因を取り除かなければ、病気の根治は難しいことも分かった。僕の場合は間違いなく過剰な激務だった。

 

やはり、あの医者の言うことをきいて休職するのも選択肢なのだろうか。

 

だが、そうなったらこのまま昇格も叶わず、平社員の身から抜け出せないのは必至だった。それならいっそ転職してしまおうか。いまの自分でも始められる職業は何かないか。ふと、高校時代の夏休みに、美大受験の夏期講習のために上京したときのことを思い出した。そもそも自分は表現者になりたくて東京へやって来た。ならばもう一度絵の勉強をやり直してみようか。作品を描き溜めたら、日曜日に井の頭公園フリーマーケットで売るのも楽しそうだ。一枚三千円で売ったとして、食べてゆくには月に何枚描けばいいだろう……。

 

馬鹿な妄想と思いながらも、脱サラといえばそんな道くらいしか浮かばなかった。悩みぬいて医師に相談したところ、うつ病による休職であれば傷病手当が貰えることが分かった。ならばすぐに会社を辞める必要もない。僕の心は次第にその方向へと傾きはじめた。一方で「そんなのはうつ病を口実にしたサボりだ、病気を言い訳にして仕事の辛さから逃げているだけだ」と叱りつけるもうひとりの自分もいた。

 

考え抜いたあげくに、僕は休職を決断した。通常ではあり得ないような逆転のチャンスをかなぐり捨てて、自室に寝ころんで治療に専念する道を選んだのだ。上司からは怒鳴りつけられると思ったが、医師の診断書を手渡すと、拍子抜けするほどあっさりとすべてを認めてくれた。曲がりなりにも大企業である以上、このような申し出に対する管理職の対応は、人事部から周知徹底されているようだった。

 

ただでさえ激務を強いられているこの部署で、僕が抜けたらますます大変なことになるだろう。それでも何も言わないでくれた上司たちに、僕は心から詫びを入れた。その他にも、仕事のできない僕を支え、応援してくれた人たちに対する罪悪感でいっぱいになった。やはり、このまま会社に居続けることはもうできない。きちんとうつ病を克服したら、いったんは復職し、何かの資格でも取ってから辞職しよう。そう心に決めていた。

 

続く (次回は最終回の予定です)

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