ADHDとして生きるということ④・中学(前編)
小学校の高学年になると、僕は県立大学付属中学校の受験を目指して猛勉強を強いられた。平日はもとより、日曜祭日も母親が付き添い、朝から晩まで机に縛りつけられるのだ。子どもらしい娯楽は取り上げられた。楽しいはずのゴールデンウィークや夏休みも犠牲になった。おかげでクラスメートのテレビの話題にもついて行けなかったことは、すでに書いたとおりだ。
だが、それでも僕は受験に失敗した。
この付属中学校というのは県下唯一の国立中学で、入学試験を突破するのは難関だ。それだけに、ここへ入れば名門高校への進学の可能性も高くなる。平たく言えば市内で最も頭のいい子どもが通う学校で、校章付きのワイシャツを着た「付属の子」は、町中どこへ行っても羨望の的だ。この「付属の子ブランド」は、おそらく現在の同市でも健在と思われる。
僕には弟と妹がいるが、ふたりとも受験に受かった「付属の子」だった。彼らばかりではない。僕の母も、母の兄弟も、みんな同校を卒業した先輩だ。惨めな不合格に終わったのは僕だけだった。こうして、僕はありきたりな市立中学へと進学した。
もちろん両親の心中は穏やかではない。こんなスタート地点でつまづくなんて、この子の将来はこの先どうなってしまうのだろう……。
かわいい長男を人生の落伍者としないために、中学へ上がると、兄弟で僕だけに家庭教師をつけるようになった。それでも安心できなかった父は、自作の数学問題を考えては僕に解かせるようになった。どれもが多忙な病院勤務の合間をぬって書き上げた労作だ。だが、僕はなかなか解くことができない。父は結果を出せない息子に激怒した。いわゆる昭和の壮絶な「しつけ」が日常化していったのだ。夕食が終わり、勉強の時間が始まると、家じゅうに罵声が飛び交い、泣き声があがる。僕はますます勉強に嫌気がさしていった。成績は下がる一方だった。
さらにもうひとつ。僕の学業を妨げる要因が別にあった。
1970年代に「おたく」という言葉はなかったが、僕は漫画が大好きだった。ただ読んで楽しむだけでは飽き足らず、自分でストーリーを考え、ノートや広告チラシの裏面にコマ割りをして自作漫画を描くようになった。漫画だけでなく戦記小説も作った。空地を歩きまわってファンタジーを空想するだけでも楽しかった。幼少期から過酷な日常を過ごしてきたせいか、とにかく架空の物語を創作することが、僕にとっては何よりの趣味となっていたのだ。
漫画を描くことで、僕はクラスの友人たちと繋がることもできた。小学校では図工が「2」ばかりだったにも関わらず、何度も漫画を描いているうちに、一部の友人からイラストをねだられるほどの腕前になっていたのだ。漫画ばかりではない。いつのまにか美術の成績も向上し、中三の三学期に初めて「5」を取った。その後も絵を描くことが楽しくなり、高校の三年間もほとんど「5」ばかりが続くようになる。漫画家のなかには、専門学校でデッサンや水彩画に打ち込み、しっかり「普通の絵」の基礎を身につけてから漫画へ応用してゆく人がいるが、僕の場合はその逆で、漫画で培った画力や感性を「普通の絵」へと転用していったように思う。
話を戻そう。
家庭教師やら父の一件などはあったにせよ、中学生ともなると、さすがに親が付きっきりで勉強を見るようなことはなくなった。それをいいことに、僕は部屋で勉強している振りをしながら漫画を描くことを覚えた。息をひそめながら創作に没頭しつつ、親の近づく気配がしたら、問題集を広げて作品を隠すやり方だ。この方法がうまくいくと、今度は大胆にもプラモデルに手を出すようになった。机の引き出しに手を入れながらプラモデルを組み立て、親が近づくと「さっ」と閉めてごまかす。こんなことを続けていたのだから、成績が下がって当然だった。
現在の知識で分析するなら、これも発達障害の特性のひとつで、何かに没頭し始めたら止まらない「過集中」の事例だろう。ここで考えていただきたいのは、この特性が必ずしも偉人賢人を生み出す原動力となるとは限らないということだ。基礎学力を身につけなければならない大切な時期に、学業そっちのけで趣味にのめり込んでいたらどうなるか。まかり間違えば、人生そのものを台無しにしてしまう元凶ではないか。
「でも、有名な漫画家なんて、みんな子どもの頃に勉強そっちのけで漫画を描きまくっていたんじゃないか」とあなたは反論するかもしれない。だが、僕の知る友人の限りでいえば、漫画のうまい人というのはおおむね学校の成績もよい。自分を律することを知っているからこそ、何事にも効率よく打ち込み、結果を出すことができるのだと思う。
それに、もしも僕が令和の時代に生まれていたら、漫画ではなくスマホゲームの中毒になっていた可能性もある。課金も歯止めがかからなくなり、親は何十万円もの請求書に驚愕したことだろう。事実、発達障害(特にADHD)と依存症との関連性を指摘する専門家は多い。過集中とはそれほど恐ろしい「症状」であり、決して「特性」などという生易しいものではない、と釘を刺しておこう。
だが、当時はADHDという言葉さえ存在しなかった。寝るのも忘れて漫画を描き続けることができるのは、ひとえに自分の才能だと思いあがっていた。画材店で本格的な漫画の道具を揃えた僕は、相変わらず親を欺き、創作を続けた。
こんなことが、むろんいつまでも続くはずはない。
最初にバレたのがプラモデル作りだった。部屋に接着剤の臭いが充満していたために、母親がおかしいと気づいたのだ。それから漫画も発覚したが、こちらは学校の必修クラブで「漫画研究会」に属していたので、その活動の一環だと申し開くことができた。
もっとも僕は、そのときまで「漫画研究会」に入っていたことを話していなかったため、ますます母を逆上させることとなった。口論の末、僕ははずみで「将来漫画家になりたい」などと口走ってしまう。
まあ、息子からこんな話をされたら、どこの親でも懸命に止めるのが人情だろう。だが僕の母親は言い方が陰湿だった。自分が尊敬してやまない手塚治虫を引き合いに出し、彼の漫画と僕のそれとが、いかに似ても似つかないかを並べ立てるのだ。
いわく、手塚治虫は小学生の頃から写真と見間違うような昆虫のスケッチを描いていた。テレビでは下書きもせず、フリーハンドで見事な「百鬼丸」を描いて見せた。だけどお前はどうなの、あんなことができるの、何が「漫画家になりたい」よ……。
それでも僕は漫画を止めなかった。家で親の目を盗んで描くばかりではなく、学校へ行っても、教科書の隅やらノートやらに描きまくった。もちろん授業に身が入る訳がない。だけど構うもんか。僕はいつか東京へ行って漫画を出版社に売り込むんだ……。
そういえば、僕の漫画は東京を舞台にしたものばかりだった。背景にはビルが立ち並び、合間をぬって高架線の列車が走ってゆく。窓辺に広がる山ばかりの景色を眺めながら、僕はまだ見ぬ大都会の「何かが始まる予感」に惹きつけられていた。
続く
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