sonicstepsのブログ

トットちゃんが妬ましい。エジソンを目指すとかあり得ない。 一部の成功者らの美談はさておき、多くの当事者にとって、発達障害はやっぱりつらい。 おまけに憎い。何よりそいつはかけがえのない人生を奪った元凶なのだ。 だけど……それでも僕らは生きてゆく、終わることのない絶望の毎日を。

僕は50過をぎても発達障害をやってる冴えない中年男です。エジソンやジョブスがどうかは知りませんが、僕自身にはさしたる個性も才能もなく、人生の敗残者として悶々とした日々を送っています。このブログで取り上げる発達障害者とは、一部メディアが持ち上げるような「障害を素晴らしい個性へと開花させた成功者」のことではありません。僕と同じく底辺を這いずる圧倒的多数の当事者たちに捧げるものです。

ADHDとして生きるということ⑪ 新人研修

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バブルの真っ盛りだった80年代後半の4月、大手企業に就職した僕は、社会人としての第一歩を踏み出した。

 

入社時に着ていた背広はオーダーメイドの三つ揃えだった。服に無頓着な僕を心配した親が、お金を振り込んでくれた上に、「そんなにすごい会社に入るんだから、オーダーメイドじゃないと笑われるよ」と念を押したためだった。結論から言えば、この両親のアドバイスはとんだ勘違いとなってしまう。むしろ僕は、仕事もできないのにそんなものを着て「笑われてしまう」のだが、この時点ではまだ知る由もない。

 

その後30年にも及ぶ社会人生活の中で、僕は笑われるだけではなく嫌われ続けた。軽蔑され、バカにされ、容赦なく心をズタズタにされた。何度も繰り返すようだが、当時はまだ「発達障害」という言葉さえ存在していない。そんな時代の企業に、整理整頓もできず、空気も読めず、ミスや物忘ればかりしている重度のADHDが迷い込んできたらどういうことになるか。これからじっくりと打ち明けてゆきたい。

 

入社式を終えた翌日から、僕らは新人研修を受けさせられた。人事部の教育担当者によるリードはとても巧みで、全員が大いにモチベーションを高めていったが、僕にとっては自己評価を下げてゆくばかりの毎日だった。

 

初日には家族構成を記す書類の提出を求められたが、親兄弟の生年月日を誰ひとり記憶していなかったのは僕だけだった。一般常識を問うテストの点数もひどいもので、同期のなかには「これでいいのか」と露骨に叱りつけてくる者もいた。極めつけは役員による講演の感想をまとめたレポートで、僕は講師の「部長」の肩書を「課長」と間違え、人事担当者を唖然とさせてしまう。それどころか、そもそも僕は「部長と課長のどっちが偉いか」も知らなかったのだ。

 

研修とはいえ、毎日を会社で過ごすのは疲れるものだが、それが終わってもプライバシーはなかった。なぜなら僕は社員寮に入寮していたからだ。

 

くたくたで過ごす休日であっても、夜になれば誰かしらの部屋で酒盛りが始まる。夕暮れ時に部屋のドアがノックされたが最後、新人が先輩の誘いを断る権利はない。酒が飲めない僕には耐えがたい苦痛だったが、1980年代の企業では、この手のパワハラは当り前だった。次から次へと酒をつがれ、飲み干しているうちに時間の感覚もなくなり、お開きの頃には午前零時を回っている。それから自室へと戻り、酔っぱらった頭で研修のレポートを書き上げるようなこともよくあった。

 

半月も過ぎると座学中心の研修は終わり、それぞれが営業所に仮配属され、実地の業務を学ぶことになる。僕は埼玉県の支社へ行くよう申し付けられた。寮のある東京郊外から、電車を乗り継いで一時間もかかる場所だった。

 

始業時間は9時だったが、新人は一時間以上も早く出社し、無償奉仕で商品の整理をするのが慣習だった。余裕をもって出勤できるよう、毎朝5時半に目覚ましを鳴らしていたが、この支社も酒のつき合いが激しく、前日に眠ったのは午前2時だったりする。頭はいつも二日酔いでふらふらだった。

 

ただでさえ作業記憶の劣るADHDが、そんな状態で仕事ができる訳がない。配属からわずか一週間で、僕は同期で最低の劣等生という烙印を押されてしまう。

 

データの通信インフラがほとんど皆無なこの時代では、あらゆる業務が膨大なペーパーのやり取りで交わされる。それを一枚でも失くそうものなら、甚大な金銭的被害や信用問題にもなりかねないのだが、僕はそれを頻繁にやらかした。電話応対の傍らで商品整理などを行っていると、通話内容を書いたメモを商品棚に置き忘れてしまう。探しているうちに電話が鳴り、今度は商品の在庫チェック表を失くしてしまうといった具合だ。

 

発送伝票や受領書など、シャレにならない物もよく失くした。一度などは、高額商品の事前予約書を置き忘れ、それを来店中のお客様に発見されるという失態をやらかしたこともある。ペーパーの扱いでさえこの有様なのだから、口頭の指示や説明などまったく頭に入らない。文字通り、三歩も歩けばことごとく忘れてしまうのだ。上司や先輩もさすがに呆れ、僕を事あるごとにバカ呼ばわりした。同期やお客様の前でもお構いなしだった。

 

昨年入社のある先輩は、僕があまりに物覚えが悪いのを見兼ねて、僕だけのためのマニュアルを作ってきた。わざわざ勤務時間外に骨を折ってくれた力作だ。本来なら素直に感謝すべきなのに、僕はその気遣いを理解できず、侮辱と受け取って腹を立てた。自分が「そこまで仕事ができない」と見なされていることが情けなくて、思わず彼を逆恨みしてしまったのだ。露骨に嫌な顔をしたのが相手にも伝わり、以後、この先輩から事あるごとにハラスメントを受けるようになってしまう。

 

月日はあっという間に過ぎて行ったが、僕の能力に向上はみられなかった。そしてある日、さらに前代未聞の致命的なミスをやらかしてしまう。

 

月末が近くなると、営業担当者は各取引先を訪問し、集金業務を行っていた。その場で小切手を回収し、領収書を切ってゆく仕事だが、新人もそれに同行するよう伝えられた。小切手の額面はどれも高額で、数百万円や数千万円のものがざらにある。社会に出たばかりの僕らにとっては、かなりの緊張を強いられる金額だ。もしかしたら、そのような金銭感覚を身につけさせるという人事部の狙いもあったのかもしれない。

 

一日に集金をかける取引先は七、八社ほどだが、新人はそのうち半分くらいの小切手を受け取り、領収書を切らされる。ところが、僕だけは「荷が重いだろう」とみなされてしまい、たった一社だけの集金を「体験させてやる」ことになった。耐えがたい屈辱だったが、同時に意地のようなものも湧いてきた。そこまでバカにされているなら、なおのこと絶対にしくじったりするものか。

 

ところが、そんな意気込みとは関係なく、やっぱりADHDはミスをしてしまうのだった。

 

何度も小切手を見つめたのに、領収書に書き込んだ金額を間違えてしまった。妙に緊張しすぎたのが災いして、頭が真っ白になってしまったのだろうか。この間違いに気づいたのは、夕刻に帰社し、回収した小切手と領収書の複写を上司と照合したときだった。僕と同行した上司は「私のチェックミスです」と言い残し、もう日が暮れた時刻にも関わらず、電車で2時間かかる取引先まで謝まりに行った。

 

僕は完全に孤立した。上司や先輩らのあらゆる暴言は指導として正当化され、日を追うごとにエスカレートしていった。酒には毎日のように誘われたが、僕のグラスには集中的に酒が注がれ、飲み干すことを強要された。悪名高い昭和の時代の一気飲みだ。彼らにしてみれば、そうすることで僕の学生気分を叩き直しているつもりになっていたらしい

 

僕は断らずに飲み続けた。酔いにまかせて店内で歌い、踊り、懸命に場を盛り上げた。そうでもしなかったら、日中のハラスメントがいっそう激しくなるのは目に見えている。もう、なりふり構っている場合ではなかった。

 

ゴールデンウィークの休日には、渋谷や池袋のデパートへ行き、ひとり屋上で呆然としながら日暮れまで過ごした。楽しそうな家族連れを眺めているうちに、これまでの人生のいろいろな場面がよみがえってくる。田舎から上京して遊んだ上野動物園や、初めてみた千葉県の海。幼稚園にあがる前までは、父や母もあんなふうに子煩悩だったっけ——

 

ふと横を見ると、ベンチに座り、膝にノートを広げて詩を書いている女性が目に留まる。僕は思い切って声をかけた。心に同じような傷を負った人なのかな、と勝手に思い込んでのことだったが、相手は怯えて逃げ去って行った。よく考えれば、こんな乱暴なナンパが失敗するのは当り前だったが、もはや僕には正常な判断力が奪われている。精神に異常をきたしているのが自分でも分かった。

 

現在であれば、こんな状態なら迷わず心療内科に駆け込んでいたことだろう。だが、この時代の精神病院はいろいろな意味で敷居が高い場所だった。カウンセラーや心理士のような職種もほとんど社会に浸透していなかったと思う。当時でも、五月頃になると有名大学を出た新入社員が突然退社し、そのままフリーターや引きこもりになってしまう問題が社会現象として報じられていたが、たいていは「今どきの若者は忍耐力がない」のひと言で片付けられていた。まともな社会生活を送れない者は、すべて本人の甘えと決めつけられてしまう風潮が蔓延していたのだ。

 

そんな時代にあって、数少ないセーフティーネットとして機能していたのが命の電話だった。

 

ゴールデンウィークの終わり頃には、僕は希死念慮を強く意識するようになっていた。何のために生きているのかよく分からず、さりとて能力のなにもない人間が転職してやり直せるとも思えなくて、いっそ楽になってしまったほうがましだと思った。大学時代の友人と連絡をとることはあったが、彼らもまた慣れない社会人生活に四苦八苦しており、こちらの悩みを聞くだけの余裕はない。八方塞がりで精神的な限界に追い詰められたとき、ふとテレビでみた命の電話のことを思い出した。

 

ところが僕にとって、これは簡単に利用できる制度ではなかった。理由は極めて単純で、1980年代には携帯電話もスマホも存在しなかった。それなら固定電話でということになるのだが、社員寮には部屋ごとの電話は設置されておらず、舎監室の前に共用電話があるだけだ。こんな場所で「僕もう死にたいんです」などと通話を交わせば、即座に舎監経由で人事部へ通告されてしまう。しかたがないので、僕は寮に近い公衆電話のボックスに入り、いのちの電話へ相談することにした。

 

できることなら、悩みを何時間でも聞いて欲しい。その公衆電話はテレホンカードを使えなかったので、僕はゲームセンターで札を両替し、百円玉をたくさん用意していた。それらを電話機の本体に積み上げ、タウンページで番号を調べる。よほど閲覧者が多いのか、ページを開くと、すぐにいのちの電話の番号が大きく掲載されているのが見つかった。

 

緊張と期待が入り混じったまま意を決し、ダイヤルを廻す。が、受話器からは「話し中」を告げる発信音が聞こえてきた。しかたがないので、ボックスに入ったまま五分ほど待ってまた掛ける。今度もまた話し中。さらに五分、十分と待って繰り返しても、やっぱり電話は繋がらない。しかたがないのでいったん寮に戻り、一時間ほど暇つぶしをしてから再び電話ボックスへ。さっきと同じように何度も試してみたが、ひたすら話し中の状態が続くばかりだった。

 

それでも諦めきれなかった僕は、三度目、四度目と、寮と電話ボックスの間を往復した。五月とはいえ、夕刻を過ぎれば一気に冷えこんでくる。やがて陽が落ち、あたりが真っ暗になっても、僕は洟をすすりながら電話ボックスへと向かった。そこまでやっても、いのちの電話はとうとう最後まで繋がらなかった。

 

がっかりして帰ろうとしたとき、タウンページには命の電話以外にもいくつかのカウンセリング機関が掲載されているのに気づいた。藁にもすがる思いでダイヤルを廻すと、どこかの寺の住職がやっている電話相談に繋がった。「こんな時間に電話してきて非常識だ」と一喝しながらも、住職は僕の相手をしてくれた。もっとも、ほとんど相手が説教するばかりのスタイルは「カウンセリング」とはほど遠く、聞いているうちに疲れてくる。僕の仕事の悩みから脱線して、住職の話はどんどんスケールが広がり、最後は人類救済の大風呂敷まで広げてきた。もしかしたら仏教を装う新興宗教かとも思ったが、入信の勧誘をしてくるようなことはなかった。

 

少々胡散臭い電話相談ではあったが、誰かに話を聞いてもらえただけでも元気が出た。僕はその日の命を繋ぐことができた。

 

続く

 

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