sonicstepsのブログ

トットちゃんが妬ましい。エジソンを目指すとかあり得ない。 一部の成功者らの美談はさておき、多くの当事者にとって、発達障害はやっぱりつらい。 おまけに憎い。何よりそいつはかけがえのない人生を奪った元凶なのだ。 だけど……それでも僕らは生きてゆく、終わることのない絶望の毎日を。

僕は50過をぎても発達障害をやってる冴えない中年男です。エジソンやジョブスがどうかは知りませんが、僕自身にはさしたる個性も才能もなく、人生の敗残者として悶々とした日々を送っています。このブログで取り上げる発達障害者とは、一部メディアが持ち上げるような「障害を素晴らしい個性へと開花させた成功者」のことではありません。僕と同じく底辺を這いずる圧倒的多数の当事者たちに捧げるものです。

ADHDとして生きるということ⑩ 大学、そして就職

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大学への進学が決まった僕は、親元を離れてひとり暮らしをすることになった。

 

念願の東京暮らしと言いたいところだが、大学があるのは都と隣接する某県の某市だった。まあ、電車のふた駅先は東京都という立地ではあるから、感覚的にはほとんど「上京」と変わりはない。何より嬉しかったのは、私鉄を途中下車して地下鉄の千代田線に乗り換えると、お茶の水へ簡単に行けることだった。美大の夏期講習の終了後、手荷物をいくつも下げて散策した神保町交差点の界隈は、それ以来、東京で最も好きな場所となっていた。立ち寄るだけでアカデミックな気分になれる神田古本街やマニアックな大型書店、風情のある喫茶店や大衆食堂の並ぶ裏路地など、僕をことごとく惹きつけてやまないノスタルジックな学生街が、こんなにも身近な場所になったのだ。それだけでも充分満足だった。

 

春先、母親の付き添いで学生課を訪ね、下宿先のアパートを決めた。風呂なしの木造アパートだったが、80年代の学生としては標準的な住まいだろう。僕の他に、同じ大学の学生がふたり住んでいたことも心強かった。窓の向こうには私鉄の線路が見えた。電車が走るたびに畳が震えるのを感じたが、そんなことさえ都会っぽさを感じて嬉しくなった。

 

大学の授業はなかなか楽しかった。多くの学生と同様に、ときには授業をサボって遊びに行くこともあったが、関心のある科目については熱を入れて取り組んだ。

 

勉学にこれだけ夢中になったのには理由がある。すべての科目ではなかったが、大学のテストというのは「〇〇について述べなさい」という論文形式のものがたくさんあり、僕を大いに張り切らせたのだ。小中高までの味気ない暗記科目とは違い、論文には自分独自の論旨を組み立ててゆく面白さがある。ひとつ自慢話をしてしまうと、ある一般教養の哲学っぽい科目などは、授業にほとんど出ていなかったにも関わらず、神田古本街で買った岩波文庫の内容を思い出しながらその場で考えをまとめ、「A」を取ることができた。(この先生は出欠をまったく取らなかったので、いつも出席者が10人といなかった)

 

振り返ってみれば、この四年間の大学生活は、ADHD当事者としての特性がプラスに働いた人生唯一の期間だったかもしれない。

 

文章を書く楽しさを知ったのもこの頃だった。所属していた人文系のサークルでは学園祭用の評論を書いたし、マスコミ志望者向けの作文の通信教育にも取り組んだ。また、当時は戦争をテーマにしたボードゲームにもはまっていたが、その専門誌に投稿した文章が掲載されたこともある。集大成は卒業用のゼミ論文だ。記憶は定かではないが、原稿用紙で百五十枚は書いただろうか。当時はパソコンはもとよりワープロさえ一部にしか普及しておらず、一人暮らしの学生に手が届くものではない。だから手書きしかなかったのだが、普通のボールペンではすぐ手が痛くなると思い、あらかじめ高価な太いペンを買って気合を入れた。四年生の冬休みはほぼ毎日徹夜して論文を書き、明け方になると始発でビル掃除のバイトへ出かけ、午後帰宅したら爆睡するという生活を続けていた。この生活パターンが、実は僕の体のリズムにぴったりだったのだ。

 

反面、嫌な科目は、すこぶるやる気をなくすのもADHDの特性だ。

 

この大学は語学を非常に重視していて、カリキュラムも充実していた。当然、外国語に自信のある学生は多い。当時は珍しかった帰国子女もたくさんいて、廊下を歩きながら流暢な英会話を交し合ったりしている。彼らは放課後になるとアテネフランセ第二外国語を学び、夏休みは当たり前のように海外へ行って、さらに語学力に磨きをかけていった。田舎では絶対目にすることのない裕福層のご子息・ご息女たちだ。

 

いまでは赤面してしまう話だが、若かった僕はその手の連中にコンプレックスを感じていた。彼らは授業のない時間も図書館や学食にこもり、辞書のページというページに蛍光マーカーを引いている。(電子辞書はまだ登場していない)あれでは、まるで中高生の丸暗記学習の延長ではないか。かたや僕は古本街通いが高じて妙な知恵をつけ、社会問題や国際問題、心理学、哲学などに異常な関心を示すようになっていた。英単語やイディオムの詰め込みに明け暮れる連中とは違って、こちらは世の中の矛盾に心を痛め、新聞を切り抜き、専門書に赤線を引いて思索にふけっている。連中よりも学生としてはるかに格が上なんだ——と自意識に浸っていたのだから、恥ずかしい。

 

まあ、これもADHD特有の持続力のなさなのか、それとも根気のいる語学学習を怠った自分への言い訳か。いずれにしろ、この時期にきちんと語学をやっていなかったことを、いまではとても後悔している。せめて外国文学の原書をすらすら読み、ニュースを漏らさず聞き取れるくらいの語学力があれば、その後の人生はずいぶん違ったものになっていただろう。とりあえず中年になってから英語の再学習を始めているが、老い呆けてしまうまでにどこまで辿り着けるものか。

 

ADHDは生活面でも悪影響を及ぼしていた。もはや発達障害の代名詞ともいえる「片付けられない特性」のおかげで、なにしろ部屋の散らかりようがひどい。母親はそのあたりをお見通しで、ときどき田舎から掃除をしにやって来た。床や玄関にはいろいろなゴミが散らばっていたが、そのなかには、読みもせずに投げ捨てた母の手紙もあった。間違いなく本人にも見つかっていたはずだが、僕は何にも言われなかった。

 

もうひとつ。在学中にずっと苦労したのは服装のセンスだ。実はADHDにとって、学校の制服ほど楽なものはない。その次に簡単なのはサラリーマンの背広で、こちらもネクタイさえ気をつければ大丈夫だ。だが大学生はそうはいかない。「自由に着たい物を着れる状況」に放り込まれたとき、僕は何を着ていいのか分からなくなった。

 

下宿には親の選んだシャツが揃っていたが、おかげでクラス中から「若者の服じゃない」と冷やかされた。(僕の両親も服装に無頓着だった。この点ひとつをとっても、彼らが発達障害である疑いは濃厚なのだ)そこで上野のアメ横へ行き、若者らしいアロハシャツを買ったのだが、自分が持って生まれたキャラクターとはあまりにかけ離れている。仕方がないので、学内を行き交う男子をよく観察し、最も多く見かける服に合わせることにした。そもそも僕はファッションに興味を持たなかったから、それで充分だった。自由奔放にみえるキャンパスにも、別の意味での「制服」があったというだけのことだ。

 

結局、誰もが「自由な服装」を楽しめるコミュニティなんてものは、世界中どこへ行っても存在しない。服装に限らず、あらゆる価値観を決める基準が「明文化された規則」なのか、それとも「無言の空気」や「流行り」であるかの違いだけなのだと思う。僕のような理論でガチガチの発達障害者にとって、前者ほど生きやすい社会はない。後者の方は逆に地獄だ。

 

これほどねじ曲がった価値観のためだろうか。大学生活の四年間で、恋人だけは最後までできなかった。こうなると、類は友を呼ぶではないが、つき合う友人もむさ苦しい同類ばかりになる。そこで傷を舐め合うような関係が嫌になり、僕はこっそり彼らを軽蔑した。なかには男子高校の出身で、口説き方も分からないまま告白と失恋を繰り返している後輩がいたが、こういう輩にはことさら嫌悪感を覚えた。僕は彼が振られるたびにいちいち冷やかし、モテない理由を指摘する。自分のことは棚に上げて「どうすれば女性とうまく付き合えるのか」を説教するのだから、みっともないことこの上ない。僕と違い、その後も努力を続けた彼は、三年生のときに彼女を作ることができた。

 

そんなことはあったものの、仲の良い友だちはそれなりにいた。整理整頓や掃除だけは進歩しなかったが、それでも初めてのひとり暮らしは僕を大いに成長させてくれたと思う。実家に帰るたびに、両親も「ずいぶん逞しくなるものだね」などと言ってくれた。だが二十年以上に及ぶ共依存関係から簡単に脱皮できる訳ではない。やがて四年生になり就職活動のシーズンが近づいてくると、両親はまさに「気が気でない」状態に陥り、過干渉を繰り返すようになる。

 

リクルートのような人材広告会社は当時もたくさんあった。ただし、ネットも就活サイトもなかった時代だから、求人広告は紙媒体が主流だった。どこでこちらの住所を調べるのか、分厚い求人案内が毎日のように郵送されてくるのだが、その半端じゃない分量が、まさにバブル真っ盛りの時代を反映していた。いわゆる「空前の売り手市場」という状況だ。

 

オンリーワンをゆく中小企業から知らぬ者はない大企業まで、僕は高揚感を感じながら採用面接に足を運んだ。ときには社会勉強とオフィス街見物を兼ねて、絶対入れっこない大手新聞社の説明会にも行ってみた。当然一発で落されたが、課題に出された作文を編集委員が褒めてくれたり、他大学の学生と交流できたりと、とても楽しい経験となった。

 

そんなことを繰り返しているうちに、さすがはバブルというべきか、大したアピールポイントもない僕でも数社から内定をもらうことができた。どうやらこれで就職浪人は避けられそうだ。安心感から気が大きくなり、さらにハードルの高い企業にもアプローチをかけてみる。人生のなかで、物事にこれほど積極的になれたのは初めてのことだ。努力は実を結び、僕はとうとうある物流系の大手企業から内定をもらった。自分のしがない出身大学や実力を鑑みれば、感謝しきれないほどの幸運だった。

 

こうして進路が決定した。母方の祖父などはその企業をよく知っていたので、とても喜んでくれた。僕の内定先にいちいちケチをつけていた両親も、今度はさすがに驚いているようだった。このとき、僕は両親に「勝った」と実感した。当時は実子が親を殴ってしまうような家庭内暴力が問題となっており、僕も常にやってみたい衝動に駆られていたのだが、そんな幼稚なわだかまりとも決別することができた。

 

だが、本当に僕は両親の呪縛を脱し、自立することができていたのだろうか。

 

同級生のなかには、趣味のアウトドアスポーツが高じて大学をやめ、専門誌のライターに身を投じた友人がいた。彼にはとても刺激を受けた。できれば自分もあんな道へと進んでみたい——そんな思いが少しずつ膨らんでくる。

 

僕がマスコミ志望者向けの通信教育を受講していたことはすでに書いたが、それも将来は編集者かライターを目指したい、と漠然と思っていたからだ。大手の出版社は難しくても、中小ならなんとかいけると思い、実際に数社ほど回ってみた。そのうちの一社から内定がきた。ただし、あくまで営業枠の採用であり、編集は無理だとはっきり言われてしまう。そんな折、志望とはまるで違う業種の大手企業から内定を貰ったのだった。

 

僕はその企業への就職を決め、内定が出た出版社を蹴ってしまった。どうしても編集者になりたければ下請けのプロダクションに入ってもいいし、ライターだったらフリーランスで苦労する道もあったのだが、それらの一切を諦めたばかりか、文章を書くことも止めてしまった。

 

とはいえ、やはりこの判断自体は常識的なものだったと思う。広い社員食堂があり、社員寮まで完備した会社に背を向けるようなことは、いくらADHDでも簡単にできるものではない。それでも心に迷いはあった。そもそもあれほど編集職に進みたかったのなら、なぜ僕は出版社や編集プロダクションに絞って就活をやらなかったのだろう。

 

その背後にあったのは、やはり親からのプレッシャーだったような気がする。

 

企業面接が解禁になると同時に、実家から毎日のように電話があり、就活の進捗状況を詰問された。やがて内定が出るようになると、両親はその社名やら概要やらをこと細かに聞いて、徹底的に調べ上げていたようだった。ときには滑り止めに受けた零細企業(失礼!)まで素性を突き止め、僕を大いに驚かせた。連日のように進路を問いただされているうちに、「フリーライターになる」などという選択肢は頭にも浮かばなくなってくる。零細で薄給の編集プロダクションも除外されていった。結局、僕は親の望むがままに、やりたい職種よりも安定を選び、大手企業に落ち着いたのだった。こんなのは自立でも何でもなかった、といまでは思う。

 

ともあれ、大学を無事卒業した僕は、社会人としての新生活をスタートさせた。

 

僕がADHDとして本当の修羅場を体験するのは、社会に出てからである。その苦しみと絶望に比べたら、幼少期や学童期、思春期に味わったいじめや虐待など生ぬるいものだ。片付けられない、ミスが多い、言われたことをすぐ忘れる……大量に出回っている発達障害本ではさらっと書かれているだけのこれらの特性が、社会生活の現場ではどれほど甚大な弊害をもたらしているか。どれだけの人々に迷惑をかけ、怒りを買い、そのことによって当事者自身がどこまで深い傷を負っているのか。

 

次回から、ゆっくりと詳細を振り返りながら綴ってゆこう。

 

続く

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