sonicstepsのブログ

トットちゃんが妬ましい。エジソンを目指すとかあり得ない。 一部の成功者らの美談はさておき、多くの当事者にとって、発達障害はやっぱりつらい。 おまけに憎い。何よりそいつはかけがえのない人生を奪った元凶なのだ。 だけど……それでも僕らは生きてゆく、終わることのない絶望の毎日を。

僕は50過をぎても発達障害をやってる冴えない中年男です。エジソンやジョブスがどうかは知りませんが、僕自身にはさしたる個性も才能もなく、人生の敗残者として悶々とした日々を送っています。このブログで取り上げる発達障害者とは、一部メディアが持ち上げるような「障害を素晴らしい個性へと開花させた成功者」のことではありません。僕と同じく底辺を這いずる圧倒的多数の当事者たちに捧げるものです。

ADHDとして生きるということ⑰ 最終回・再出発に向けて

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心療内科のアドバイスに従い、僕は自宅療養でうつ病と向き合うことを決心した。

 

休職初日は七時前に目が醒めた。

 

昨日までなら、とっくに職場で仕事の準備にかかっている時刻だった。本来の始業時刻の2時間だ。暖房もかかっていない社内はひどく寒い。それでも無償奉仕の早朝出勤者たちはジャンバーを羽織り、白い息を吐きながらデスクに向かっている。さしずめ、いまごろはみんなコンビニのサンドイッチでも頬張りながら、起動中のパソコン画面を眺めていることだろう。そんな様子が、ぼんやりと天井を眺めているうちに浮かんでくる。睡眠薬の効き過ぎなのか、それとも抗うつ剤の副作用なのか、眠気がひどくてトイレにも立てない。僕はもう一度布団を被った。次に目が醒めたのは正午過ぎだった。

 

次の日も、その翌日も、昼夜を問わず眠りこける状態が続いた。起きているあいだはレンタル屋のDVDを観ていることが多かった。本もたくさん買ってきた。だが、内容がまるで頭に入らない。掃除や洗濯もせず、趣味にも手を出さず、万年床で横になるうちに一日が終わった。外出は必要最低限に抑えていた。どこかで会社の外回りの連中と出くわすのが嫌だったからだ。どうしても都心へ出なければならないようなときは、帽子とマスクで顔を隠した。酒も今度こそ断ち切った。

 

こういう毎日を繰り返していると、時間の経つのがとにかく早い。正月休みやゴールデンウィークが「あっという間」に終わってしまうのと似ていて、通常の一週間が二、三日くらいのペースで過ぎてゆく。よく、引きこもりの人が時間の感覚を失くし、本人の自覚がないうちに中高年となってしまうような事例を耳にするが、当時の僕も同じ状況に陥っていたのかもしれない。

 

唯一体を動かさなければならなかったのが、二週間に一度の通院日だった。

 

診療の受付開始は朝9時だが、その一時間前には、シャッターの閉まった入口前に長蛇の列ができている。このクリニックでは予約を一切受け付けていないから、とにかく早く来て並ばないと、何時間待たされるか分かったものではないのだ。半日以上を潰されることもザラにあった。

 

それだけ待つのだから。さぞ丁寧な問診が行われるのかと思いきや、聞かれるのは薬の効き具合のみ。効かなければ薬を足し、効き過ぎれば減らし、副作用があればそれを抑える薬を追加することの繰り返しだ。患者の悩みを傾聴するカウンセリングらしき場面など一切なく、問診はいつも数分で終了した。処方箋を貰うために時間を浪費しているようなものだった。

 

薬物治療に物足りなさを感じた僕は、うつ病患者たちが主催する自助グループに関心を持つようになった。主催者の男性の病状はかなり重いらしく、休職日数は二年以上にも及ぶという。そのような人たちの闘病体験を聞くことで、何か得るものがあるのではないか。迷った末、思い切ってメールで参加を申し込んだ。

 

ところが期待は空振りに終わった。

 

自助グループで語られる話題は、ほとんどが服用中の薬の情報だった。治験中の薬がいよいよ認可されたとか、さっそく試してみたら効いたとか、効かないとか、副作用でどんなエピソードが出たとか……すべてが知らない話ばかりで、僕は会話の輪に入ることができない。話題もひどく退屈に思えたが、僕を除く全員が楽しそうだ。知識も驚くほど豊富で、長ったらしい薬の名前や医学用語を次々と諳んじてみせる。他には、休職をめぐる福祉制度や保険についての知識交換も活発だった。挙句には「精神障害者保健福祉手帳の診断書を簡単に書いてくれる医者」の情報までやり取りされている。僕は二度とこの場に足を運ぶことはなかった。

 

自助グループを体験したことによって、平成二十年前後に一般的だった精神医療のスタンスが、患者の側にもいかに強く影響を与えているかが理解できた。当時は「うつは心のかぜ」というフレーズが流布していた。つまり、風邪のように当たり前な病気であり、薬を適切に飲むことによって必ず根治できるのだという。端的にいえば、希死願望などの症状は脳の異常な状態(セロトニンの不足など)によって起こるものであり、それを薬の効力によって正常化することが治療の基本となる。本来、僕が期待していたようなカウンセリング療法は保険対象外であり、別途にべらぼうな金額を請求された。

 

これには大いに疑問を持った。

 

たとえば、日本で大規模な雇用危機が発生し、失業者の自殺が急増したとする。ここで政府が自殺にストップをかけたいなら、真っ先に着手すべきなのは雇用対策であり、失業者を精神病院へ入院させ、薬漬けにして希死願望を圧殺することではないだろう。ところが、当時の医療現場では、それと同じようなことが行われていた気がしてならないのだ。

 

むろん薬物療法を全否定するつもりはない。僕自身、眠剤によって睡眠障害をずいぶん改善すすることができた。抗うつ剤の効果もあったのか、日々の生活に対する意欲は感じられるようになった。もっとも、こちらは単に嫌な仕事から解放されただけのことである可能性もあるが、回復を少しずつ実感できたことに変わりはない。

 

生活にも少しずつ変化があった。医師の指導には反するが、ときには思い切って外出することも多くなった。図書館まで自転車を飛ばし、うつ病発達障害、カウンセリングについて何時間も勉強する。最新情報を求めて都心の大型書店へ行くこともあったが、一度だけ、道端で会社の役員とばったり出くわしてしまった。自宅療養中の身としては、まるで仮病がバレた小学生のような心境だったが、役員は「あんまり無理するなよ」と優しく言って立ち去って行った。

 

ここまで勉強にのめり込んでいったのは、ひとえに転職の可能性に備えてのことだった。当面の目標は現職への復職だったが、問題はその後の身の振り方だった。もう基幹職へ返り咲くのは無理だろう。かわりにどんな閑職に飛ばされることか。再配属先でも、こちらは間違いなくお荷物だ。あからさまに何かを言われはしないだろうが、微妙な空気は避けられないだろう。そんな毎日が、定年まで続くと思うと気が重かった。

 

僕は過去にメンタルを病んだ社員たちの顔を思い浮かべた。復帰後の風当たりに耐えられず、辞めていった者も少なくない。状況次第では、僕も腹を括らなければならない可能性がある。その覚悟と準備だけはしておこうと思った。

 

それでは転職先をどうしよう。たとえば、いままで夢中になってきた心理療法を仕事にはできないものか。当時は国家資格である公認心理士はまだ登場しておらず、臨床心理士が心理専門職の登竜門とされていた。この資格があれば、スクールカウンセラーなど多様な場で活躍する道が開けるが、試験を受ける前に認定協会指定の大学院を出なければならない。通信制の大学院でも良いらしいが、経費は二百万円くらいかかるようだ。

 

試験の難易度と高額な費用に委縮した僕は、他の民間資格の資料もいくつか取り寄せてみた。こちらの受講料は三十万円くらいが相場で、臨床心理士に比べれば格安といえたが、問題はその資格の社会的価値だった。パンフレットを見る限りでは、どれも「本気でカウンセラーを目指す人大歓迎」のようなキャッチコピーが謳われているが、実際にカウンセラーになった人の就職先や、カウンセリングルームの開設事例などは載っていない。おそらくは、レッスン料は高いがデビューできないタレント養成所のようなものなのだろう。

 

いろいろ調べてゆくうちに、心理専門職で食べてゆくことの難しさも分かってきた。他の転職先も模索することにしたが、いずれにしろ、何かしらのネームバリューがある資格を取り、心理療法の知識や文章力など、自分の強味を存分に発揮できる業種を目指すことを心に決めた。そのためには、まずうつを克服して復職することが先決だと思った。休職しながらスクーリングに通うことも可能ではあったが、僕のために穴埋めをさせられている職場の仲間たちのことを思うと、それだけは避けたかったのだ。同時に、試験勉強や転職へのストレスで、病状が悪化するのも怖かった。僕は治療に専念すべく、引き続き不要の外出を避け、酒を断ち、養生に努めた。

 

僕は休職を半年間続けた。その甲斐あってか、ある時期を境に、物事に対する意欲のようなものがはっきりと実感され始めた。あれほど嫌だった会社にさえ、「早く戻りたい」と切望するようになってきたのだ。これならば休職を終わらせても良いのではないかと思い、ある通院日に、僕は主治医にその意向を告げた。この医者は往々にして慎重なところがあり、今回も「復職なんて時期早々」と一蹴されるかと思ったが、あっさりと承諾されて拍子抜けする。「そのような意欲があるのは、快方に向かっている証拠」という説明だった。季節はもう夏になっていた。

 

さて、昨年8月に連載「ADHDとして生きるということ」を始めてから半年以上が経った。人生に終わりがないように、物語もまだまだ続いてゆくのだが、このあたりでいったん筆を置こうと思う。

 

ご想像のとおり、僕はその後も波乱の出来事に巻き込まれてゆく。だが、直近の記憶というのはあまりに生々しく、沸き起こってくる感情が客観視の邪魔をしてしまう。また、現時点でも密な付き合いのある人物を多数登場させざるを得ないのも気が重い。そのような理由から、以下はエピローグとして、その後の出来事を簡単に振り返る程度で締めとすることをお許しいただきたい。

 

うつを乗り越え、復職に成功した僕だったが、実際に転職を果たすには、なお十年以上の年月が必要だった。理由はいくつかあったが、やはり長い人生での成功体験があまりに乏しく、新たな仕事に挑んでゆく自信がなかったことが大きい。一方で、その反動なのか「どうせ転職するなら大きな仕事をして周囲を見返してやる」との思いも強かった。一時は本気で小説の文芸賞を目指したりもしたが、絶対の自信があった300枚の大作が、一次選考であっさり落されてしまう。このショックは大きく、以後三年近くも長編小説が書けなくなってしまった。

 

「あれもしたい、これもしたい」ともたもたしているうちに、年月ばかりが過ぎてゆく。このままではきりがないと焦っていた頃、背中を押すような出来事がいくつか重なり、僕は三十年務めた会社を辞めた。転職先は福祉施設だった。当初志していたメンタルケアやカウンセリングのような職種とは異なるが、とりあえずは食べてゆけるだけの収入が得られる。そこで生活を確保した上で、やりたいことはボランティアで関わってゆく選択肢もあると思った。その場合でも、やはり福祉職としてのステータスは上げておきたい。仕事をしながら通信教育を二年続けた後、僕は社会福祉士の国家試験に挑戦した。休日のほとんどを勉強にあてた甲斐があり、一発合格を果たすことができた。

 

この合格によって、僕の「暗記学習は不得手」というコンプレックスを少しは払拭できたと思う。成功の裏には、ADHDとしての自分の特性をよく理解したうえで、そのまままでは退屈極まりない反復学習を「楽しい行為」へと変えてゆくための創意工夫があった。その詳細は、また別のシリーズとして記事にまとめ、このブログに公開してゆきたい。同じ悩みを抱える人たちにとって、少しでもお役に立てれば幸いだ。

 

コンプレックスといえばもうひとつ。僕のなかには「もしも自分が中学、高校時代にまともな学生活を送れていたら、もう少し学力を発揮できていたのではないか」という悔いがあった。過去の記事で述べてきたとおり、僕の少年時代は経済的には恵まれていたものの、日々イジメや虐待にさらされ、希死願望も伴うほど追い詰められてきた。あの状態では学業どころではなかった、といまでも思う。おかげで後々まで学歴コンプレックスに悩まされることになったが、それを払拭するためには、その後の人生で成功体験を重ねてゆくしかない。今回の国家試験への挑戦は、その一環で一念発起したことでもあった。

 

連載を続け、人生を振り返りながら実感したのは、「片付けられない」とか「ミスをする」といったADHDの特性そのものは、必ずしも生きづらさに直結する要因になるとは限らないということだ。深刻なのは、もっぱらうつや希死願望などの二次障害の方だったように思う。そして、それは家庭や学校、職場などの周辺環境ばかりではなく、時代、社会、地域性などのマクロな背景にも大きく左右される。

 

僕の場合は、まず昭和四十年代生まれという時代のハンディがあった。当時は発達障害という概念など皆無であり、その特性はことごとく「だらしがない」のひと言で片付けられた。家が裕福だったために、周囲から「どうせ甘やかされて育てられているんだろう」と決めつけられていたことも不運だった。まだ日本が貧しかった時代ゆえに、世間のこの手のやっかみは強く、アニメや漫画に出てくる悪役は金持ちの家の子ばかりだった。イジメや虐待の加害者たちは、あらゆる暴力は僕を叩き直す教育になると信じていたのだろう。

 

では、僕は本当に家庭で甘やかされていたのか。たしかに両親は過保護ではあった。そして過干渉を繰り返した。だが、ADHDとしての特性を背負った僕は、両親の期待する「うちの子」とは程遠い。その苛立ちが虐待を誘発した。「見ていられない」という焦りが過干渉をエスカレートさせた。親の溺愛と虐待とは、表裏一体であることがままあるのだ。

 

このような要因がひとつもなければ、僕の人生はどうなっていただろう。だらしがなくても、ミスをしがちでも、他人にはない能力を発揮できるような職を探し当てることができただろうか。

 

ちまたでは、若いに頃つらい思いをしたADHDの当事者たちが、海外生活などをきっかけにしてビジネスに目覚め、特性を強みへと転じてゆくようなサクセスストーリーが流布している。五十を過ぎても二次障害から立ち直れない僕からみれば、まるで遠い世界の出来事のようだ。同じ特性を背負っていても、環境次第、運次第で、発達障害の特性をプラス要因としてゆける人々がいる。だが、彼らとは真逆の貧乏くじを引いてしまった僕はどうしたらよいのだろう。

 

先ほども少し書いたが、僕はこれまでに小説を数本書いている。登場する主人公は自分の分身ばかりで、変わり者だったり、社会に順応できなかったり、美大受験を何年も落ち続けたり、会社で怒られてばかりいたりする。だが、そんな架空の物語を創作するよりも、いっそ自分の実話体験をそのまま書いてしまったほうが面白いのではないか。何千枚もの文章を書いた末に、ようやくそのことに気づくことができた。

 

自分史を書くという着想が、半年以上をかけたブログ記事として形になった。去年の夏に、慣れないはてなブログの操作が分からず、悪戦苦闘したことが懐かしい。Twitterによる告知が功を奏したこともあり、シリーズ連載中はたくさんの人たちから励ましとご指導の言葉を頂いた。ブログのアクセス数も順調に増え、本当に多くの読者に読んで頂けたことが何よりも嬉しい。長文の記事を最後まで続けることができたのは、ひとえに皆様のおかげです。この場を借りてお礼を申し上げます。

 

自分史は今回で終了しますが、ブログ記事はこれからも続けてゆきます。今後は発達障害関連の書籍の書評や、他の当事者たちとの交流体験記事(プライバシー厳守)などを掲載してゆけたらと思います。引き続き、sonicstepsのブログをよろしくお願いいたします。