ADHDとして生きるということ⑧ 高校(後編)
高校2年生ともなると、誰もが将来の進路で悩むようになる。僕もそろそろ受験を考えなければならなくなったが、「東京へ行きたい」という漠然とした思いしか浮かんでこない。将来に備えて何かを身につけようとか、じっくり専攻科目に取り組みたいとか、そんな意識は皆無だった。まわりの連中も似たり寄ったりで、受験のことなど休み時間の話題にものぼらない。のどかなものだ。
僕の通っていたのは、まだ歴史も浅い新設の高校だった。進学校という触れ込みではあったが、開校以来、東大はもちろん早慶の合格者もまったくなし。一握りのトップが辛うじてMARCHにもぐり込めるというレベルだった。(その後、同じクラスだった秀才が初めて早大合格の快挙を成し遂げ、保護者会に招待された)
教室には気だるさが蔓延していた。教師にとってもさぞやり甲斐のない集団だったろう。授業をさぼって帰ってしまう者もいた。理数系科目の脱落者も目立ち始めた。僕自身、物理で初めて「赤点」を経験したが、クラスの大半が似たような点数だから気にもならない。朱に交われば何とやらだ。
低迷する僕の成績を心配して、親は数学教師のやっている私塾をみつけて僕を通わせた。塾というのはたいてい通う曜日が決まっているものだが、ここではそれが変則的であったため、僕はよく塾のある日を忘れてしまう。これまで何度も書いてきた「物忘れ」の特性だった。
相変わらず似たような問題で迷惑をかけていたわけだが、小中学校までは「子どものことだから」と小言で許してもらえたし、自分自身も「努力すれば克服できる」と高をくくっているところがあった。だが、高校生にもなってこんな失態を繰り返せば、さすがに誰もが激怒する。親はもとより、人の好い塾の先生までが仏頂面で絶句してしまう始末だった。ここまできて、僕はいよいよ自分の異常さを本気で自覚するようになる。ADHDという根っこに辿り着くまでの、長く過酷な自己探求の始まりだった。
それはさておき、学業の問題を巡って、僕は父親とささいな事件を起こしてしまう。だが、その話に入る前に、ここで時間を十年ほど遡り、きちんと父親との関係を語っておきたい。書くのは辛いのだが、僕は幼少期より、父親からあらゆる形の虐待行為を「これでもか」というほど行使されてきた。
もともとは子煩悩な父親だった。夕食前には僕や弟を散歩に連れて行ってくれたし、肩車をしてもらった記憶もある。それが豹変したのは、僕が幼稚園に入ったばかりの頃だっただろうか。
最初にターゲットになったのは弟だった。理由はまったく分からないのだが、泣きじゃくりながら裸足で庭へと逃げる弟を、父親が鬼の形相で追いかけてゆく様子をはっきりと覚えている。父親の不機嫌な状態は何日も続いた。そして、とうとう凶行の矛先が僕へと向けられるときがきた。ひどく冷え込む冬の日、突然襲い掛かってきた父親は、もう真夜中なのに僕ひとりを家の外へと放り出したのだ。弟のときと同様、理由はまったく分からない。鍵をかけられ、カーテンで塞がれた窓に向かって、僕は声を枯らしながら許しを乞い続けた。ヒステリックに壁を叩いたりしたが、窓は何時間も閉じられたままだった。
父親は心理的虐待も凄まじかった。なかでも耐えられなかったのは、大切にしていたおもちゃを目の前で破壊したり、窓から放り出すことだった。この行為は僕らが中学にあがる頃まで続けられ、弟などは高価な鉄道模型を踏み潰されたりした。あのときの弟の獣のような悲鳴は、いまでもありありと思い出すことができる。
これがテレビドラマであれば、泣きじゃくる母親が捨て身で父親に立ち塞がってくれたりする。だが、現実の母親は見て見ぬふりをするだけだった。それどころか、まるで夫に媚を売るかのように、一緒になって僕らに辛く当たるようになった。その後の人生で、僕が男女の恋愛にどこか否定的な感情をもつようになったのは、この体験によるところが大きい。
(それから何十年も経て、母親は父親が心を病んでしまった理由を打ち明けてくれた。虐待が始まったちょうどその頃、勤務先の精神病院で入院患者の自殺があったらしい。父親はマスコミに事故を報じられることを極度に恐れ、追い詰められていったという)
さて、幼稚園や小学校まではやられっ放しでも、子どもはやがて反抗期を迎え、自我に目覚めるようになってゆく。とりわけ僕は中学・高校と体力づくりに励んだため、腕力では何となく「父親に勝てる」と自負するようになった。テレビのニュースでは、時おり高校生が父親を金属バットで叩きのめすような事件が報じられている。もちろん僕はそんな一線を踏み越える気はなかったが、自分と同年代の少年が力で男親を打ちのめしているという事実は、戦前までの家父長的な価値観が廃れつつあることを意味していた。
長くなったが、話を冒頭に述べた父親との事件に戻そう。
内容はよく覚えていないのだが、その朝も父親は何か学業のことで小言を言った。いつものように、こちらが何も言えずに縮こまってしまうと思っていたのだろう。だがその日の僕はいつもと違った。自分のなかで自信と怒り、覇気と憎悪とが入り混じり、毅然とした態度で「黙れ」とやり返したのだ。もう、あんたの言いなりの息子じゃない。僕は容易に父親を怯ませることができると思った。
だが甘かった。逆上した父は僕の首を抱え込み、たちまち畳にねじ伏せた。僕は全力を込めて身体をよじり、反撃に転じようとした。だが、どうしても首にかけられた父親の腕を外すことができない。必死で背中を殴りつけるので精いっぱいだった。
どうなっているんだ。相手は衰えていく一方の中年じゃないか。こちらは奴より背も高いし、腕力も鍛えたはずだ。それなのにこいつはびくともしない。反撃らしい反撃もできずに痛めつけられているじゃないか——
結果的に、僕は暴力で父親に負けた。
弓道部の試合の一件と並んで、この事件は僕に克服しようのないコンプレックスを植えつけた。これからも、僕は長い人生のさまざまな場面で理不尽に出くわすだろう。ときには剥き出しの暴力に遭遇するかもしれない。だが、僕はそんなときに何もできない人間だということを思い知らされた。きっと愛する者を守ることもできず、指を咥えて言いなりになるしかない。こんな人間が、この先も生きてゆく価値があるのか。この思いを払拭するにはどうしたらいいのだろう。
これはいまでも確信していることだが、もしもあの取っ組み合いで父親を圧倒していたら、その後の自分の人生は間違いなく変わっていたと思う。圧倒といっても、テレビで報じられている家庭内暴力のように大怪我を負わせるつもりはない。乱闘をするふりをしつつ親を気遣い、手加減をしながら適当なところで止めにする。そんな余裕も出てくるほどの腕力が欲しかった。高校生二年生の男子であれば、誰でもあたりまえに備わっている普通の力だ。だが僕にはそれがない——
さて、父親との格闘戦にけりをつけたのは、数学の塾の先生からの電話だった。こともあろうに、僕はその日も塾があるのを忘れてしまっていたのだ。父親は「駄目だねえ」と勝ち誇ったように言い、庭へ出て行った。僕はそそくさと出かける準備にかかった。
心理学によれば、人間にとって17~8歳頃というのは自我を決定づけるために大切な年頃なのだという。そんな時期に、僕は自信とか自尊心というものを徹底的に打ち砕かれてきた。弓道部は完全な幽霊部員となり、二学期の頃にはほとんど顔を出さなくなっていた。かわりに打ち込んできた事といえば、下校時に立ち寄るゲーセンのシューティングゲームくらいのものだ。学業の低下も深刻だった。社会科が苦手なのは相変わらずだったが、得意だったはずの理系科目や英語までが、テストをするたびにどんどん点数を下げてゆく。まともな大学への入学など、ほとんど望むべくもない状況に追い込まれていた。
それでも僕はプライドを取り戻そうと必死だった。無理にでも交友関係を広げるため、文化祭の出し物などにも積極的に参加したが、かえって周囲から浮くばかりでひんしゅくを買った。他の場面でも出しゃばり過ぎたのが仇となり、クラスの友人も次々と離れてゆく。修学旅行前のミーティングで列車の座席を決める際、先生は好きな友だちのとなりに座ることを許してくれたが、僕のとなりの席だけ希望者がいなかった。
ただひとつ、絵を描くことだけは相変わらず得意だった。
いつもクラスで浮いてばかりの僕が、美術の時間だけは全員から尊敬の目でみられた。生まれて初めて描いた油絵を、女子から「欲しい」と言われたこともある。そんな折、必修クラブで美術部員と話す機会があった。彼によれば、部員の多くが美術大学に進路を定め、夏休みの受験講習にも参加しているという。
そうか、もしかしたらその世界で生きてゆく道もあるのではないか。低迷する偏差値に絶望していた僕は、やっと見つけた活路に全力を尽くすことを決心した。
続く
外部リンク