sonicstepsのブログ

トットちゃんが妬ましい。エジソンを目指すとかあり得ない。 一部の成功者らの美談はさておき、多くの当事者にとって、発達障害はやっぱりつらい。 おまけに憎い。何よりそいつはかけがえのない人生を奪った元凶なのだ。 だけど……それでも僕らは生きてゆく、終わることのない絶望の毎日を。

僕は50過をぎても発達障害をやってる冴えない中年男です。エジソンやジョブスがどうかは知りませんが、僕自身にはさしたる個性も才能もなく、人生の敗残者として悶々とした日々を送っています。このブログで取り上げる発達障害者とは、一部メディアが持ち上げるような「障害を素晴らしい個性へと開花させた成功者」のことではありません。僕と同じく底辺を這いずる圧倒的多数の当事者たちに捧げるものです。

ADHDとして生きるということ⑤・中学(後編)

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中学に上がると、僕にもそれなりに友だちができるようになった。漫画やプラモデルに出会ったことで、何かに打ち込む喜びも覚えた。だが、クラスの女子との軋轢はますます悪化の一途を辿り、何をやっても嫌われ続けることになる。

 

初めて異変に気づいたのは、夏休みが過ぎ、二学期も中盤に差し掛かった頃だった。

 

彼女らに直接何かを言われた訳ではない。ただ、いくつかのグループが、僕が近づくだけで妙な反応をする。全員がさっと顔をそむけたり、口元をおさえて薄笑いを浮かべたりしながら、露骨にこちらから去ってゆくのだ。もちろん何も話しかけてくれない。こちらが話そうとしても何も答えず、ことごとく無視される。理由は「気持ちが悪いから」らしい。

 

異様な目つきや喋り方、歩き方や運動神経の欠如など、もとは発達障害や身体的欠陥に端を発したマイナス因子は、成長とともに精神を蝕み、二次障害という負のスパイラルを拡大してゆく。おかげで人の目をみて話すのも苦手になった。表情もますます陰鬱さを増した。多感な年頃の女子からみれば、僕は受け入れがたい化け物にまで変容していったということなのだろうか。

 

さらに悪いことに、僕はこの頃から腋臭がきつくなっていた。入浴時には擦り切れるほど脇を洗っているのに、翌朝になるとまた悪臭が鼻をつく。祈るような気持ちで、テレビCMでおなじみの消臭スプレーを試したが、宣伝とは裏腹に効果は弱い。むしろ柑橘系の香りと腋臭とが混沌と入り混じり、ますます嫌がられた。

 

髪型も不気味だと言われた。これもADHDの特性なのか、当時の僕は毎日洗髪するということができず、理髪店に行っても「汚い頭だな」と言われていた。さすがにまずいと思い、こまめな洗髪を心掛けるようになったのだが、うちにはなぜかドライヤーがない。やむなくタオルで必死に拭くしかないのだが、当然ながら、一夜明けるとひどいくせ毛になってしまう。蒸しタオルを押しつけ、遅刻ぎりぎりまで髪を整える毎日だった。

 

ところで、ありきたりな家電であるドライヤーが、なぜ我が家にだけ備わっていなかったのか。実をいうと、僕の両親は、こと身だしなみに関しては世間と妙に感覚がずれているところがあった。もう気づかれたかもしれないが、彼らもまた発達障害であった疑いが濃厚なのだ。学校の担任教師が「僕がだらしないのは親のしつけのせい」と考えたのも、もしかしたら両親の雰囲気をみて察するところがあったのかもしれない。

 

さて、中学生といえば性に目覚める年頃でもある。ワイドショーが報じるわいせつ事件はクラスの話題になるし、少年漫画の過激な性描写も人気だった。なかには修学旅行で女湯の覗きを敢行する猛者もいた(誓って僕は加わってません)ほどで、際限なく情欲に狂う雄どもは、女子らの嫌悪の的となった。

 

そんな折、毎朝の通学路では、児童に卑猥な言葉を浴びせては去ってゆく初老の男が出没するようになった。もしかしたら認知症だったのかもしれないが、正体は今もって分からない。こともあろうに、クラスメートは僕をこの男と似た渾名で呼ぶようになった。挙動不審な様子がそっくりだということらしい。

 

性的異常者と同一視されたことで、女子らの僕に対する憎悪は決定的なものとなった。廊下で僕とすれ違うたびに、みんなわざとらしい悲鳴を上げて逃げてゆく。手が少しかすっただけでも、まるで汚物が触れたような顔をされた。僕の心は壊れた。なんとかメンタルのバランスをとるために、自分よりももっと弱いクラスの男子を徹底的にいびって憂さを晴らした。一度だけ、彼のノートを覗き見たことがある。太い文字で一面に「バカ」「死ね」などと書き殴られていた。ネタのように思われそうだが、本当のことだ。

 

家へ帰ると、今度は弟や妹をいたぶった。精神的に、肉体的に、さまざまな方法を使って暴力を行使し、泣き叫ぶまで続ける。根を上げた弟は、ある日僕に向かって「家に帰った時、お前がいないとほっとするんだ」とまで言い切った。僕は自分のしたことにショックを覚えたが、すぐに怒りへと変わり、苛めをエスカレートさせていった。

 

両親は懸命に弟たちを庇った。弱いもの苛めに暴走する僕は、もはや家族の厄介者でしかなかった。冷静に考えれば当然の報いなのだが、当時の僕の目には、出来の悪い長男ひとりを見捨てた許しがたい虐待と映った。もう家にも学校にも居場所はない。僕はデパートやボーリング場のゲームコーナーに通った。伝説のインベーダーゲームが登場する以前のチープなゲームだが、やり込むうちに腕前が上がり、他の子らが背中で見物するほどになった。ギャラリーのなかには女の子もいた。他の中学の制服を着た見知らぬ子だった。

 

そうだ。高校へ行けば、クラスの残酷な女どもから解放されるかもしれない。僕への偏見に染まっていない他校から、多くの女子が進学してくるからだ。彼女らのなかには、きっと僕を理解してくれる人もいる。恋人なんて贅沢なことは言わない。ただ、ごく普通に会話ができる相手が見つかれば充分だ。僕は一縷の望みにすがりついた。高校受験のセミナーにも積極的に通うようになった。

 

勉強だけではなく、スポーツにも打ち込むようになった。高校に上がったら、いままでとは違う自分に変わってみせる。切ない妄想だが真剣だった。基礎体力作りのため、腕立て伏せや逆立ち、腹筋背筋などを、部屋の畳が擦り切れるまでやり込んだ。短い期間だが、無理をして運動部に入ったこともある。やればできるもので、それまで体育は「2」しか取ったことのない僕が、三年生以降は「3」が取れるようになってきた。大人になった現在、友人にこの話をすると100人中99人は「レベルの低すぎる成長だ」と大笑いするが、それでも僕はこの経験を自分の勲章だと思っている。

 

まあ、急に向上心が芽生えたところで、学力が飛躍的に向上するはずもない。漫画ばかり描いていたのが仇となり、僕は県下の名門校には及びもつかない分相応の共学高校に進学した。友人関係が一新したところで、これまでの惨めな日々から真剣に脱却することを心に決めつつ、僕は始業式に臨んだのだった。

 

だが現実は甘くはない。ADHDという残酷な障害は、その後も僕の人生を狂わせ続ける。あらゆる努力はすべて無に帰してしまうのだった。

 

続く

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