sonicstepsのブログ

トットちゃんが妬ましい。エジソンを目指すとかあり得ない。 一部の成功者らの美談はさておき、多くの当事者にとって、発達障害はやっぱりつらい。 おまけに憎い。何よりそいつはかけがえのない人生を奪った元凶なのだ。 だけど……それでも僕らは生きてゆく、終わることのない絶望の毎日を。

僕は50過をぎても発達障害をやってる冴えない中年男です。エジソンやジョブスがどうかは知りませんが、僕自身にはさしたる個性も才能もなく、人生の敗残者として悶々とした日々を送っています。このブログで取り上げる発達障害者とは、一部メディアが持ち上げるような「障害を素晴らしい個性へと開花させた成功者」のことではありません。僕と同じく底辺を這いずる圧倒的多数の当事者たちに捧げるものです。

ADHDとして生きるということ⑭ 二次障害の併発

f:id:sonicsteps:20210126202623j:plain

入社して何年も経つと、大卒の同期のなかには職制へ昇格する者も出始めた。落ちこぼれの僕には縁のない話だ。高卒の先輩の中には「そのうちお前もどんどん偉くなって、俺たちを顎で使うようになるんだろうな」などと冷やかす人もいたが、むろん本気でそんなことを懸念している者はいない。僕自身、いまの実力では昇格など絶対あり得ないと自覚していた。それよりも心配していたのはブルーカラーへの左遷だ。

 

周囲にはそんな人が何人もいた。みな何かの失点をやらかした者ばかりだった。就業規則を犯した者、同業他社に大手取引を奪われた者、顧客からのクレームが絶えない者。なかには取引先の女性職員へのセクハラが発覚したケースもあった。

 

いずれにせよ、営業職から現場職への異動というのは、大抵は懲罰人事的な意味が込められていた。僕自身、ミスをするたびに「大卒だからって、そんなことやってると本当に作業服を着せるぞ」とさんざん恫喝されてきた。まるで流刑地にでも飛ばされるような言い草だった。こんな状況だから、現場担当者のモチベーションは否が応でも下がってゆく。もちろん、それでも真剣に仕事をしている人はたくさんいたのだが、社内的な位置づけが高いとは言えなかった。

 

これが大きな問題だと、僕はいまでも思っている。

 

この会社の本業は物流だ。そしてその物流をひとえに担っているのが作業現場だ。本来であれば、顧客サービスを支える基幹の部署とされてもおかしくはない。ところが会社の考え方は違っていた。

 

経営の要はあくまで商材の販売拡大であり、そのためのマーケティングを構築することが、企業としての最重要課題とされた。その反面で、ブルーカラー部門の設備投資や新技術の導入には関心を示さない時代が長く続いた。先の記事でも述べたが、作業現場の経験のない大卒者を営業の即戦力として配置するような人事改革も、そのような方針の一環として強行されたものだった。それから十年、二十年と過ぎ、やがて日本にも外資系の巨大ネット通販が台頭してくることになる。時代最先端の流通インフラを武器とする強敵だ。その脅威を前にして、当時の業界は「黒船だ」などと大騒ぎしていたが、それでも抜本的な物流改革は遅れに遅れ、じわじわと市場を侵食されながら今日に至っている。

 

話をもとへ戻そう。

 

何年も営業をやっていれば、いくら要領の悪い僕でも少しは仕事を覚えてくる。それなりの評価をしてくれる取引先も出て来たし、少しは人間関係の立ち回りも上手くなった。ミスや物忘れは相変わらずだったが、自分なりに記録ノートやスケジュール表を作成することで改善がみられた。いまでいうところのライフハックのようなものだ。そのおかげなのか、何とか懲罰人事のようなものは免れることができた。査定に伴う面接では、上司から「曲がりなりにも営業合格」と言ってもらえた。

 

こうして僕は、昇格とはいかないまでも、それなりに高度な仕事を任せてもらえるようになった。その分責任も大きく、入力違いや連絡漏れなどの些細なミスが大問題に直結する。ADHDには最も不向きな仕事だったが、やはり着任当初は嬉しかった。とにかく落ち着いて、チェックを二重、三重に徹底すれば絶対防止できる。そう自分に言い聞かせてデスクに向かった。

 

だか甘かった。

 

着任から数か月目にして、僕は考えられないような失敗をやらかした。重要なデータ入力をごっそり落とし、各取引先との信用問題にまで発展してしまったのだ。原因は、内部連絡文の内容を誤って解釈したためだった。(ADHDにはこのような勘違いも極めて多い)

 

たちまちフロア中が大騒ぎになった。ミーティングスペースには関連部署の課長職が何人も集まり、僕の起こしたトラブルの対応を検討している。先輩たちは仕事を中断し、謝罪のために取引先へと飛び出していった。僕はパソコンに向かって事後処理を続けたが、その間にもクレームの電話がジャンジャンかかってくる。集中力はますます散漫になり、再入力でも何か所ものミスが発覚した。もはやまともな仕事ができる状態ではなかった。

 

何とか事態は収拾できた。周囲が懸命に駆けずり回ってくれたおかげだ。だが、僕の精神は回復不能なほどのダメージを被っていた。きっとまた自分はミスをする。あり得ないミスでまた迷惑をかけるに違いない——そんな強迫観念が常に頭にまとわりついて離れなくなった。だから何度もチェックをする。それでもどうしても気が済まずに、また同じチェックを繰り返す。おかげで仕事はどんどん遅れていった。ひとりだけ残って最終退出ばかりしていたから、守衛さんたちにも呆れられた。それでも終わらず、翌朝七時に出社するようなことも普通になっていたから、疲労は限界にまで溜まってゆく。昼食を抜いて仕事することも増えた。不眠のまま夜を明かすことも常態化していた。しばらくおさまっていた希死願望がぶり返してきたのもこの頃だった。

 

ある日曜日、僕は何となく東池袋の中央公園へと足を運んだ。足元でうろつく鳩の群れを追い払いながら、汚れていないベンチをみつけて腰を下ろす。間近にはサンシャインビルがそびえ立っていた。俳優の沖雅也が身を投げたのは、あれによく似た京王プラザホテルだったろうか。

 

そういえば、入社当時も、嫌なことがあるたびに池袋へ出ては、一日中カフェやベンチで呆けていたことを思い出す。あれからもう何年も経つのに、自分は会社員としてまったく進歩がみられない。公園にはホームレスらしき老人が何人もいた。みんなパンパンに膨れた紙袋を脇に並べて、文庫本を読んだり、ラジオに耳を傾けながら過ごしている。もしも自分がもっと貧しい家の生まれで、何の学歴もないまま東京へやって来ていたとしたら、あちらの仲間に入っていたのは確実だろう。

 

にもかかわらず、自分は相も変わらず背広を着て、毎日会社に通える恩恵に預かっている。たまたま医者の息子に生まれ、苦労もせずに大学を出て、運よく大手企業に紛れ込めたおかげだった。純粋に自分の力で勝ち取ったものなど何ひとつないのだ。最低だ。まったく人間として最低の奴だ。これだけの幸運に恵まれながら、自分は親にも、会社にも、何ら報いることができていないじゃないか。

 

今回のミスを挽回すべく、僕はその後も早朝出勤と最終退出を繰り返して頑張った。だがすべては徒労に終わった。会社勤めの方ならお分かりと思うが、日本企業の人事考課は「出来て当然」「出来なければ失点」「断トツに出来過ぎて初めて加点」の減点方式であることが多い。一度マイナス評価を下されたら最後、返り咲くにはウルトラDくらいの逆転劇が必要となる。(と、ある経済小説に書いてあった)それでも諦めずに突き進んでいったが、結果は悲惨なものだった。

 

それからさらに数年が経った。入社から十年以上が過ぎていた。

 

その頃になると、同期はもとより、後輩のなかからも僕を追い抜き、昇格する者が出始める。もう中堅社員の域に差し掛かっている落ちこぼれに対して、周囲が見る目はこれまで以上に冷たくなった。入社当時に比べれば、つまらないミスは少なくなったが、それは日々病的な強迫観念にかられつつ、チェックの上にもまたチェックを重ねてきた結果に過ぎない。

 

そんなことを繰り返していたため、僕の神経は完全におかしくなった。

 

些細なことにもイライラする。人当たりもどんどんきつくなる。特に耐えられなかったのは電話のベルだ。もうミスは繰り返すまいと懸命に検算をやっているところへ、ひっきりなしに耳障りな高音が鳴り響くのだからたまらない。もしも内容がどうでもいい話だったりしたら、容赦なく怒鳴りつけることもあった。当然相手も黙ってはいないから、すぐに大喧嘩になってしまう。挙句には受話器を本体に叩きつけ、ますます周囲のひんしゅくを買っていた。いつしか僕は、社内で「怖い人」のレッテルを貼られるようになってしまった。

 

発達障害や感覚過敏の当事者であれば、こんな状況で電話のベルを聞くことが、どれほど苦痛であるかを理解していただけると思う。だが、それ以外の人からみたら、忍耐力のない幼児レベルだと思われるのが関の山だ。僕自身、もしもこんな社員が他にいたら、絶対に話しかけようともしなかっただろう。だから懸命に耐えるしかないのだが、どうしても感情が爆発するのを抑えられない。自分をコントロールすれば済むことなのに、まったくなす術がないのが情けなかった。

 

せっかく飲み会で築いた人間関係も崩れようとしていた。かつては大勢いた飲み仲間から、まったく誘いがかからなくなったのだ。終業時間が近づくと、前後左右の面々が合図を交し合い、同じ時間に揃って場を去ってゆく。ひとりだけ取り残された僕は、気づかないふりをして残務整理を続けていた。

 

さすがに忘年会や新年会のような大きな酒席には呼ばれたが、話しかけてくれる相手はひどく少ない。かつてはあんなに楽しいと思っていた飲み会が、いまは退屈に耐える時間でしかなくなっていた。打ち上げが終わると、みんな二件目の飲み屋やカラオケへと流れてゆくのが恒例だ。だが、僕は人ごみに紛れながら彼らを振り切り、隠れ家替わりの店でひとり飲みをするようなことを続けていた。

 

新人時代は飲み会が嫌だった。だが、いざまったく誘われなくなってみると、その寂しさが身に染みてくる。仕事のあとの予定がないということが、まさかこれほどつらいものだったとは。時間を持て余した僕は、社外の学習サークルに参加したり、自宅近くの飲み屋で友人作りに励むようになったが、それでも虚しさ、寂しさを埋めることはできなかった。

 

ある日のこと。僕を除く課のほぼ全員が、終業時刻を知らせるチャイムと同時にいっせいにいなくなってしまった。いつものちょい飲みにしては人数が多い。時間も早すぎる。何があったのかと思っていると、やはり居残っていた高齢の課長が「何だ、君は行かないのか」と訊ねてきた。訳も分からないまま「いいえ」と答えると、課長はすべてを悟ったように意味ありげな笑いを浮かべた。

 

あとでわかったことだが、どうやらこの日は、別の部署も交えたボーリング大会が行われたらしい。仕事上、とても密接な関係にある部署だ。彼らと関係を作っておくメリットは大きい。ところが僕は蚊帳の外に置かれた。聞いた話では、同じ課のみならず、相手の部署でも僕を嫌がる人が多くいたのが原因らしい。まあボーリングなどどうでもいい。あんなものはもともと好きでも何でもなかったが、自分に対するマイナス評価がそこまで広く浸透していることがショックだった。

 

突然、友だちの少なかった幼児の頃を思い出した。

 

あの頃いつも孤立していたのは、ひとえに弱さが原因だった。だから強くなろうとして色々なことをやった。無理をして体育会に入部したり、気の合わない優等生とつき合ってみたり。それもこれも、ただ誰からも馬鹿にされずに過ごしたいという「ありきたりな日常」が欲しくてやっていたことだ。

 

だが、切実な願いは大人になっても叶えられることはなかった。何年経っても仕事のミスを連発しているのだから、当たり前といえば当たり前かもしれない。いじめや嫌がらせが煩わしくて、舐められまいとひとすら強さを装い続けてきたが、そんなものはすぐに見抜かれてしまう。強さのかわりに得たものは、ただ「怖い人」というレッテルだけだった。

 

ここまでくれば、発達障害という言葉を知らなくても、さすがに自分の強烈すぎる個性の問題を深く考えるようになった。また、そのような個性の持ち主が、ときには歴史に名を残すような偉業を成すことがあることもそれとなく知った。だが、そんな個性なら無くてもいい。ただ当たり前の人生を送りたい——

 

このころから、僕は心理学や精神医療について、独自に猛勉強をするようになった。このことが、のちの人生に大きな転機をもたらすようになるのだが、この頃は何も気づかず、ただ心の救いを懸命に求め、専門書を読み漁り続けていた。

 

続く

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 大人のADHDへ
にほんブログ村

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 成人発達障害へ
にほんブログ村

 

外部リンク

心理オフィスK

人間関係・心の病・トラウマを解決するカウンセリング

 https://s-office-k.com/?amp=1