sonicstepsのブログ

トットちゃんが妬ましい。エジソンを目指すとかあり得ない。 一部の成功者らの美談はさておき、多くの当事者にとって、発達障害はやっぱりつらい。 おまけに憎い。何よりそいつはかけがえのない人生を奪った元凶なのだ。 だけど……それでも僕らは生きてゆく、終わることのない絶望の毎日を。

僕は50過をぎても発達障害をやってる冴えない中年男です。エジソンやジョブスがどうかは知りませんが、僕自身にはさしたる個性も才能もなく、人生の敗残者として悶々とした日々を送っています。このブログで取り上げる発達障害者とは、一部メディアが持ち上げるような「障害を素晴らしい個性へと開花させた成功者」のことではありません。僕と同じく底辺を這いずる圧倒的多数の当事者たちに捧げるものです。

ADHDとして生きるということ⑩ 大学、そして就職

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大学への進学が決まった僕は、親元を離れてひとり暮らしをすることになった。

 

念願の東京暮らしと言いたいところだが、大学があるのは都と隣接する某県の某市だった。まあ、電車のふた駅先は東京都という立地ではあるから、感覚的にはほとんど「上京」と変わりはない。何より嬉しかったのは、私鉄を途中下車して地下鉄の千代田線に乗り換えると、お茶の水へ簡単に行けることだった。美大の夏期講習の終了後、手荷物をいくつも下げて散策した神保町交差点の界隈は、それ以来、東京で最も好きな場所となっていた。立ち寄るだけでアカデミックな気分になれる神田古本街やマニアックな大型書店、風情のある喫茶店や大衆食堂の並ぶ裏路地など、僕をことごとく惹きつけてやまないノスタルジックな学生街が、こんなにも身近な場所になったのだ。それだけでも充分満足だった。

 

春先、母親の付き添いで学生課を訪ね、下宿先のアパートを決めた。風呂なしの木造アパートだったが、80年代の学生としては標準的な住まいだろう。僕の他に、同じ大学の学生がふたり住んでいたことも心強かった。窓の向こうには私鉄の線路が見えた。電車が走るたびに畳が震えるのを感じたが、そんなことさえ都会っぽさを感じて嬉しくなった。

 

大学の授業はなかなか楽しかった。多くの学生と同様に、ときには授業をサボって遊びに行くこともあったが、関心のある科目については熱を入れて取り組んだ。

 

勉学にこれだけ夢中になったのには理由がある。すべての科目ではなかったが、大学のテストというのは「〇〇について述べなさい」という論文形式のものがたくさんあり、僕を大いに張り切らせたのだ。小中高までの味気ない暗記科目とは違い、論文には自分独自の論旨を組み立ててゆく面白さがある。ひとつ自慢話をしてしまうと、ある一般教養の哲学っぽい科目などは、授業にほとんど出ていなかったにも関わらず、神田古本街で買った岩波文庫の内容を思い出しながらその場で考えをまとめ、「A」を取ることができた。(この先生は出欠をまったく取らなかったので、いつも出席者が10人といなかった)

 

振り返ってみれば、この四年間の大学生活は、ADHD当事者としての特性がプラスに働いた人生唯一の期間だったかもしれない。

 

文章を書く楽しさを知ったのもこの頃だった。所属していた人文系のサークルでは学園祭用の評論を書いたし、マスコミ志望者向けの作文の通信教育にも取り組んだ。また、当時は戦争をテーマにしたボードゲームにもはまっていたが、その専門誌に投稿した文章が掲載されたこともある。集大成は卒業用のゼミ論文だ。記憶は定かではないが、原稿用紙で百五十枚は書いただろうか。当時はパソコンはもとよりワープロさえ一部にしか普及しておらず、一人暮らしの学生に手が届くものではない。だから手書きしかなかったのだが、普通のボールペンではすぐ手が痛くなると思い、あらかじめ高価な太いペンを買って気合を入れた。四年生の冬休みはほぼ毎日徹夜して論文を書き、明け方になると始発でビル掃除のバイトへ出かけ、午後帰宅したら爆睡するという生活を続けていた。この生活パターンが、実は僕の体のリズムにぴったりだったのだ。

 

反面、嫌な科目は、すこぶるやる気をなくすのもADHDの特性だ。

 

この大学は語学を非常に重視していて、カリキュラムも充実していた。当然、外国語に自信のある学生は多い。当時は珍しかった帰国子女もたくさんいて、廊下を歩きながら流暢な英会話を交し合ったりしている。彼らは放課後になるとアテネフランセ第二外国語を学び、夏休みは当たり前のように海外へ行って、さらに語学力に磨きをかけていった。田舎では絶対目にすることのない裕福層のご子息・ご息女たちだ。

 

いまでは赤面してしまう話だが、若かった僕はその手の連中にコンプレックスを感じていた。彼らは授業のない時間も図書館や学食にこもり、辞書のページというページに蛍光マーカーを引いている。(電子辞書はまだ登場していない)あれでは、まるで中高生の丸暗記学習の延長ではないか。かたや僕は古本街通いが高じて妙な知恵をつけ、社会問題や国際問題、心理学、哲学などに異常な関心を示すようになっていた。英単語やイディオムの詰め込みに明け暮れる連中とは違って、こちらは世の中の矛盾に心を痛め、新聞を切り抜き、専門書に赤線を引いて思索にふけっている。連中よりも学生としてはるかに格が上なんだ——と自意識に浸っていたのだから、恥ずかしい。

 

まあ、これもADHD特有の持続力のなさなのか、それとも根気のいる語学学習を怠った自分への言い訳か。いずれにしろ、この時期にきちんと語学をやっていなかったことを、いまではとても後悔している。せめて外国文学の原書をすらすら読み、ニュースを漏らさず聞き取れるくらいの語学力があれば、その後の人生はずいぶん違ったものになっていただろう。とりあえず中年になってから英語の再学習を始めているが、老い呆けてしまうまでにどこまで辿り着けるものか。

 

ADHDは生活面でも悪影響を及ぼしていた。もはや発達障害の代名詞ともいえる「片付けられない特性」のおかげで、なにしろ部屋の散らかりようがひどい。母親はそのあたりをお見通しで、ときどき田舎から掃除をしにやって来た。床や玄関にはいろいろなゴミが散らばっていたが、そのなかには、読みもせずに投げ捨てた母の手紙もあった。間違いなく本人にも見つかっていたはずだが、僕は何にも言われなかった。

 

もうひとつ。在学中にずっと苦労したのは服装のセンスだ。実はADHDにとって、学校の制服ほど楽なものはない。その次に簡単なのはサラリーマンの背広で、こちらもネクタイさえ気をつければ大丈夫だ。だが大学生はそうはいかない。「自由に着たい物を着れる状況」に放り込まれたとき、僕は何を着ていいのか分からなくなった。

 

下宿には親の選んだシャツが揃っていたが、おかげでクラス中から「若者の服じゃない」と冷やかされた。(僕の両親も服装に無頓着だった。この点ひとつをとっても、彼らが発達障害である疑いは濃厚なのだ)そこで上野のアメ横へ行き、若者らしいアロハシャツを買ったのだが、自分が持って生まれたキャラクターとはあまりにかけ離れている。仕方がないので、学内を行き交う男子をよく観察し、最も多く見かける服に合わせることにした。そもそも僕はファッションに興味を持たなかったから、それで充分だった。自由奔放にみえるキャンパスにも、別の意味での「制服」があったというだけのことだ。

 

結局、誰もが「自由な服装」を楽しめるコミュニティなんてものは、世界中どこへ行っても存在しない。服装に限らず、あらゆる価値観を決める基準が「明文化された規則」なのか、それとも「無言の空気」や「流行り」であるかの違いだけなのだと思う。僕のような理論でガチガチの発達障害者にとって、前者ほど生きやすい社会はない。後者の方は逆に地獄だ。

 

これほどねじ曲がった価値観のためだろうか。大学生活の四年間で、恋人だけは最後までできなかった。こうなると、類は友を呼ぶではないが、つき合う友人もむさ苦しい同類ばかりになる。そこで傷を舐め合うような関係が嫌になり、僕はこっそり彼らを軽蔑した。なかには男子高校の出身で、口説き方も分からないまま告白と失恋を繰り返している後輩がいたが、こういう輩にはことさら嫌悪感を覚えた。僕は彼が振られるたびにいちいち冷やかし、モテない理由を指摘する。自分のことは棚に上げて「どうすれば女性とうまく付き合えるのか」を説教するのだから、みっともないことこの上ない。僕と違い、その後も努力を続けた彼は、三年生のときに彼女を作ることができた。

 

そんなことはあったものの、仲の良い友だちはそれなりにいた。整理整頓や掃除だけは進歩しなかったが、それでも初めてのひとり暮らしは僕を大いに成長させてくれたと思う。実家に帰るたびに、両親も「ずいぶん逞しくなるものだね」などと言ってくれた。だが二十年以上に及ぶ共依存関係から簡単に脱皮できる訳ではない。やがて四年生になり就職活動のシーズンが近づいてくると、両親はまさに「気が気でない」状態に陥り、過干渉を繰り返すようになる。

 

リクルートのような人材広告会社は当時もたくさんあった。ただし、ネットも就活サイトもなかった時代だから、求人広告は紙媒体が主流だった。どこでこちらの住所を調べるのか、分厚い求人案内が毎日のように郵送されてくるのだが、その半端じゃない分量が、まさにバブル真っ盛りの時代を反映していた。いわゆる「空前の売り手市場」という状況だ。

 

オンリーワンをゆく中小企業から知らぬ者はない大企業まで、僕は高揚感を感じながら採用面接に足を運んだ。ときには社会勉強とオフィス街見物を兼ねて、絶対入れっこない大手新聞社の説明会にも行ってみた。当然一発で落されたが、課題に出された作文を編集委員が褒めてくれたり、他大学の学生と交流できたりと、とても楽しい経験となった。

 

そんなことを繰り返しているうちに、さすがはバブルというべきか、大したアピールポイントもない僕でも数社から内定をもらうことができた。どうやらこれで就職浪人は避けられそうだ。安心感から気が大きくなり、さらにハードルの高い企業にもアプローチをかけてみる。人生のなかで、物事にこれほど積極的になれたのは初めてのことだ。努力は実を結び、僕はとうとうある物流系の大手企業から内定をもらった。自分のしがない出身大学や実力を鑑みれば、感謝しきれないほどの幸運だった。

 

こうして進路が決定した。母方の祖父などはその企業をよく知っていたので、とても喜んでくれた。僕の内定先にいちいちケチをつけていた両親も、今度はさすがに驚いているようだった。このとき、僕は両親に「勝った」と実感した。当時は実子が親を殴ってしまうような家庭内暴力が問題となっており、僕も常にやってみたい衝動に駆られていたのだが、そんな幼稚なわだかまりとも決別することができた。

 

だが、本当に僕は両親の呪縛を脱し、自立することができていたのだろうか。

 

同級生のなかには、趣味のアウトドアスポーツが高じて大学をやめ、専門誌のライターに身を投じた友人がいた。彼にはとても刺激を受けた。できれば自分もあんな道へと進んでみたい——そんな思いが少しずつ膨らんでくる。

 

僕がマスコミ志望者向けの通信教育を受講していたことはすでに書いたが、それも将来は編集者かライターを目指したい、と漠然と思っていたからだ。大手の出版社は難しくても、中小ならなんとかいけると思い、実際に数社ほど回ってみた。そのうちの一社から内定がきた。ただし、あくまで営業枠の採用であり、編集は無理だとはっきり言われてしまう。そんな折、志望とはまるで違う業種の大手企業から内定を貰ったのだった。

 

僕はその企業への就職を決め、内定が出た出版社を蹴ってしまった。どうしても編集者になりたければ下請けのプロダクションに入ってもいいし、ライターだったらフリーランスで苦労する道もあったのだが、それらの一切を諦めたばかりか、文章を書くことも止めてしまった。

 

とはいえ、やはりこの判断自体は常識的なものだったと思う。広い社員食堂があり、社員寮まで完備した会社に背を向けるようなことは、いくらADHDでも簡単にできるものではない。それでも心に迷いはあった。そもそもあれほど編集職に進みたかったのなら、なぜ僕は出版社や編集プロダクションに絞って就活をやらなかったのだろう。

 

その背後にあったのは、やはり親からのプレッシャーだったような気がする。

 

企業面接が解禁になると同時に、実家から毎日のように電話があり、就活の進捗状況を詰問された。やがて内定が出るようになると、両親はその社名やら概要やらをこと細かに聞いて、徹底的に調べ上げていたようだった。ときには滑り止めに受けた零細企業(失礼!)まで素性を突き止め、僕を大いに驚かせた。連日のように進路を問いただされているうちに、「フリーライターになる」などという選択肢は頭にも浮かばなくなってくる。零細で薄給の編集プロダクションも除外されていった。結局、僕は親の望むがままに、やりたい職種よりも安定を選び、大手企業に落ち着いたのだった。こんなのは自立でも何でもなかった、といまでは思う。

 

ともあれ、大学を無事卒業した僕は、社会人としての新生活をスタートさせた。

 

僕がADHDとして本当の修羅場を体験するのは、社会に出てからである。その苦しみと絶望に比べたら、幼少期や学童期、思春期に味わったいじめや虐待など生ぬるいものだ。片付けられない、ミスが多い、言われたことをすぐ忘れる……大量に出回っている発達障害本ではさらっと書かれているだけのこれらの特性が、社会生活の現場ではどれほど甚大な弊害をもたらしているか。どれだけの人々に迷惑をかけ、怒りを買い、そのことによって当事者自身がどこまで深い傷を負っているのか。

 

次回から、ゆっくりと詳細を振り返りながら綴ってゆこう。

 

続く

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ADHDとして生きるということ⑨ 大学受験

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高校を卒業したら、東京の美術大学へ進みたい—— 日曜日の午後、僕は自分の意向を思い切って両親へ伝えた。

 

たちまち全身に緊張が走った。言うが早いか、即座に猛反対されると思ったのだ。それでも僕の決意は硬い。口論になったら徹底的に受けて立つ覚悟を決めていた。

 

まあ、子どもが「美大へ行きたい」などと言い出せば、たいていの家庭では親子喧嘩となるのが関の山だろう。何より美大は倍率が高い。学費だって桁外れだ。さらには運よく受験に受かったところで、卒業後にその道で食べてゆける保証もない——

 

だが、僕の両親はまったく予想外の反応をみせた。

 

父親はしばらく考えたあとで、ゆっくりと頷いてくれた。なんだか「腑に落ちた」という表情だった。こうなると、母親はいつも父親の言いなりだ。自分からは何も言わず、ただ相槌をうつばかりだった。その態度の裏に、実はとんでもない本音が隠れていたのだが、その時点ではまだ知る由もない。

 

ともあれ、父親は拍子抜けするほどあっさりと美大受験を許してくれた。あの物わかりの悪い人物が、なぜ今回はこれほどの理解を示してくれたのだろうか。

 

いまではその謎を解く術もない。父親は交通事故で逝去してしまっているからだ。それでも思い当たることはいくつかある。

 

何より、父親には多少の絵心があり、ときどき樹木などをスケッチしたり、木版画をたしなんでいた。腕前もそれなりだったことを覚えている。同じ才覚を引き継いでいる息子のことを、実は密かに喜んでいたのだろうか。それとも学業が駄目なのを憂慮して、別の道に賭けてみようと考えたのか。

 

とにかくすべては動き始めた。僕はその週のうちに画材屋へ行き、油彩画と木炭デッサンの道具を一通りそろえた。とはいうものの、まだ初心者だから学生向けの安物ばかりで、キャンパスもごく小さなものからスタートする。ただし道具箱は胡桃製の贅沢なものを選んだ。「箱だけは安物は避けたほうがいい。筆やバレットは消耗品だけど、箱は一生使うものだから」という美術部員のアドバイスを受けてのことだった。

 

それから美術部へ入部した。弓道部には何も伝えていないままの転部だった。本来なら、運動部でこんな不義理は許されないところだが、顧問教師が趣味で絵を描く人だったことが幸いし、僕を応援するとまで言ってくれたのだった。

 

そして二年生の夏休み——

 

僕は東京のお茶の水にある美術学院の夏期講習を受けることになった。たしか二週間ほどのカリキュラムだったと思う。宿泊先は、本郷三丁目にある受験生向けの宿舎に決まった。親元を離れた場所で、こんなに長い期間を過ごす経験は初めてだった。

 

受講日の初日、僕は石膏デッサン用の大きなカルトン(画板)と画材を手に下げ、御茶ノ水駅に降り立った。目にする景観はみな独特で、小舟の行き交う神田川や、アーチ型をした聖橋の橋脚など、目にするものがいちいち物珍しかった。それにこの界隈は緑が多い。だから蝉がやかましい。そうした記憶のひとつひとつが、僕にとっては東京の原風景として焼きついている。何十年も経った現在でも、御茶ノ水駅辺りを歩くだけで高揚感が沸いてくるほどなのだ。

 

さて、意気揚々とアトリエに向かったのはいいが、肝心の絵のほうは序盤からつまずいた。

 

授業が始まって数時間で「ここは僕が来るところじゃない」と思った。初めて挑戦した石膏デッサンは、それほど難易度が高かったのだ。

 

最初に与えられた課題はビーナスの頭部の石膏像で、とにかくそっくりに描けという。そのためには、目鼻の形や大きさ、さまざまな膨らみや窪みといったものを正確に目測してゆく必要があるのだが、どこがどう狂っているのか、僕の描くビーナスはどんどん人間の顔からかけ離れてゆく。しまいには、とうとう完全な「バケモノ」になってしまった。

 

当然だが、講師の評価は最悪だった。というか、ほとんど指導らしい言葉もかけてくれない。「どうせこいつに何を言っても理解できないだろう」と言わんばかりだった。

 

アトリエには全国各地から美大志望者が集まっていたが、半分以上は浪人生だったように記憶している。明らかにハタチ過ぎとみられる受講生も多数いて、昼休みには喫煙コーナーが満員となった。僕は美術部の先輩に言われたことを思い出した。一流の美大を目指したかったら、二浪や三浪をするのは当たり前。東京藝大に至っては、十浪目にしてやっと合格するような強者も少なくない。美大とはそれほどハードルが高い難関であり、現役合格者など滅多にいやしない——それらの情報が誇張でも何でもないことを、僕はこの場で再認識させられた。

 

(ちなみに、現在では少子化による学生数減少のため、美大受験は当時ほどの難関ではなくなっているようだ)

 

浪人生のデッサンは当然うまい。だが、現役組にも基礎が出来ている者はたくさんいる。僕のような「バケモノ」を描いている者も皆無ではなかったが、それを慰みにするようではおしまいだ。気分を改め、二作目のモチーフに取り掛かる。そうだ、今度は上級者の描く手順をよく見て真似てみよう。それから石膏像をさらに凝視し、全体の起伏や形の変化、光と影とを把握しようと努力した。そうしているうちに気づいたが、人間の顔や体というものは、何と複雑な形状をしているものなのか。夢中になるあまりに、僕は授業が終わっても通行人の顔をいちいち観察するほどになっていた。だがデッサンは甘くない。努力も虚しく、二枚目、三枚目と続けて「バケモノ」を描いてしまう。

 

変化が現れたのは四枚目だった。講師の評価はもうひとつだったが、それでもいままで描いてきたものとはまるで別物の一作が出来上がった。絵というものは、このように突然うまくなることがしばしばあるのだ。大げさではなく「これ、本当に自分が描いたのか」と思えるような出来栄えだった。

 

満足感を味わいながら、僕は田舎へと帰郷した。実家で迎えてくれた両親も、「東京から帰ってきて逞しくなった」なんて言っている。ただし金遣いの荒さは叱られた。デッサンがなかなか上達しないストレスから、僕は所持金をゲームセンターにつぎ込み、「万一のための予備金」にまで手を出していた。このように「自分の衝動や感情を抑えられない」という性癖は、四十代になる頃まで人生のさまざな場面で頻発し、周囲に迷惑をかけることになる。

 

それはさておき——

 

夏休みが終わると、僕は新たな気持ちで高校の美術室へと向かった。東京で学んだデッサンのスキルを、これからどこまで向上させることができるだろうか。美術部には、僕の他にも美大志望者が数名いた。みんな東京や地元で夏期講習を受けてきたらしく、お互いのレベルの動向を気にしている。なかには「君が俺よりうまくなっていたら嫌だなあ」などと露骨に言ってくる輩もいた。

 

そういえば、東京の夏期講習でも似たようなことを言われた。なにしろ高倍率である美大受験では、誰かの合格は即自分が蹴落とされることを意味している。彼らがナーバスになるのは当然だった。三流進学校の雰囲気に染まり、のほほんとしている場合ではない。

 

周囲の視線を意識しながら、僕は美術室の石膏像に向き合った。講習を終えて初めてのデッサンだ。全体の形の取り方はうまくいった。ところが、そのあとがどうしてもうまくいかない。焦れば焦るほど目測が狂い、またしても「バケモノ」が出来上がってゆく。八つ当たりかもしれないが、周囲では「僕がうまくなったら嫌だ」と妬むライバルたちが、全員ニヤついているようにも思えてきた。どうしたんだ、こいつらに腕前を見せつけてやるんじゃなかったのか。

 

それから先は地獄だった。僕のデッサンは何枚描いても「バケモノ」を脱することが出来ず、そのまま秋が過ぎ、冬となった。一方で油彩画の方は少しずつ向上がみられ、特に色づかいや構図などを褒められた。だが、それだけでは受験に合格することはできない。ライバルたちはここぞとばかりに「来年になってもこんなレベルじゃ話にならない」などと脅しをかけてくる。

 

こんな心理戦に負けてしまうのも情けないのだが、僕は心が折れていた。これでは弓道部のときとまったく同じじゃないか。いっときは希望が垣間見えても、かならず最後はどん底にまで突き落とされる。そして、そこから這い上がることなんて絶対にできないんだ——

 

いまから思えばただのマイナス思考かもしれない。だが、多感な高校生にとっては、それをプラスのエネルギーに変えてゆくなど出来ぬ相談だった。弓道部の試合メンバー落ちという挫折体験は、その後何年も僕の心を呪縛し、逃避ばかりを誘発してゆくことになる。

 

絵を描いてばかりの毎日にも不安を覚えるようになった。受験に学業が関係なくなって以来、いわゆる主要科目の勉強はほとんどノータッチとなり、定期テストは「下がるがまま」に放置していた。こうなると、もう教科書に何が書いてあるのかも分からない。いったい自分は何をやっているのだろう。

 

ただし英語と国語だけは懸命にやった。美大では、絵画制作などの実技試験に加えて、英語と国語の学科試験も行われていた。絵のレベルが合格ラインぎりぎりであった場合、学科の点数が合否の命運を分けることもある。その逆転を狙ってのことだった。特に英語はもともと得意科目だったこともあり、一時の低迷を脱して成績を伸ばしていった。何枚描いても上手くならない石膏デッサンとは大違いだ。そうか。美術に比べれば、普通の勉強とはこんなに容易く努力が報われるものだったのか。

 

その後もデッサンが上達することはなく、三年生の春に、僕は美大受験を断念した。夏期講習の費用や東京滞在費、絵画の材料費などを合わせれば、お金だけでも数十万円をどぶに捨てたことになる。

 

父親はますます僕を軽蔑した。精神科の医師らしく、「お前のやることはいつも逃避と自己防衛だ」とフロイト心理学を持ち出して嫌味を言ったりもした。だが、母親は密かに僕の心変わりを喜んでいたようだ。父親には何も言えなかったが、実は息子が美術などという水物に夢中になっているのが我慢できなかったらしく、電話で誰かに「うちの子、結局はどんどんいい方向に変わっている」などと話しているのを聞いてしまった。この母の態度は、父の小言よりもはるかに屈辱的だった。だが何も言い返す権利はない。僕は生まれて初めてやりたいことをやらせてもらえたのに、その結果を出せない人間だということが確定してしまったのだ。

 

さて、問題はこれからの進路である。まともな勉強は英語と国語しかやっていない。そんな僕でも受験できるような都合のいい大学はあるのだろうか。

 

それがあったのだ。語学教育に重点を置いているその大学は、受験科目のほとんどが英語であり、他には論文を書かせるだけという類まれなところだった。活路を見出した僕は、教学社の赤本で過去問題を徹底的に分析した。出題傾向さえ分かれば、勉強方法はおのずと絞られてくる。これが都会の高校生であれば、大手の受験予備校に通って傾向予測を教えてもらうのだろうが、僕は自力でそれをやった。暗記や反復学習は苦手でも、こういうことには我ながら頭がよく回る。ADHDの本領発揮だった。

 

こうして僕は、その大学に現役合格することができた。

 

進路を変更してからは美術部にも顔をださなくなり、絵を描く場は授業の美術のみとなった。そこでふたたび石膏デッサンをやることになったのだが、モチーフは東京で初めて描いたのと同じ、あのビーナスの首像だった。受験にこだわることなくのびのび描いたデッサンは、今度こそ「本当に自分が描いたものなのか」と驚くレベルに仕上がった。美術部の元ライバルは「このデッサン、どの部分もタッチが同じなんだよね」と悪態をついたが、教師は「A」をつけてくれた。同じ評価を得たのは、同学年でも限られた者だけだ。繰り返すが、絵というのは突然うまくなることがあるのだった。

  

続く

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ADHDとして生きるということ⑧ 高校(後編)

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高校2年生ともなると、誰もが将来の進路で悩むようになる。僕もそろそろ受験を考えなければならなくなったが、「東京へ行きたい」という漠然とした思いしか浮かんでこない。将来に備えて何かを身につけようとか、じっくり専攻科目に取り組みたいとか、そんな意識は皆無だった。まわりの連中も似たり寄ったりで、受験のことなど休み時間の話題にものぼらない。のどかなものだ。

 

僕の通っていたのは、まだ歴史も浅い新設の高校だった。進学校という触れ込みではあったが、開校以来、東大はもちろん早慶の合格者もまったくなし。一握りのトップが辛うじてMARCHにもぐり込めるというレベルだった。(その後、同じクラスだった秀才が初めて早大合格の快挙を成し遂げ、保護者会に招待された)

 

教室には気だるさが蔓延していた。教師にとってもさぞやり甲斐のない集団だったろう。授業をさぼって帰ってしまう者もいた。理数系科目の脱落者も目立ち始めた。僕自身、物理で初めて「赤点」を経験したが、クラスの大半が似たような点数だから気にもならない。朱に交われば何とやらだ。

 

低迷する僕の成績を心配して、親は数学教師のやっている私塾をみつけて僕を通わせた。塾というのはたいてい通う曜日が決まっているものだが、ここではそれが変則的であったため、僕はよく塾のある日を忘れてしまう。これまで何度も書いてきた「物忘れ」の特性だった。

 

相変わらず似たような問題で迷惑をかけていたわけだが、小中学校までは「子どものことだから」と小言で許してもらえたし、自分自身も「努力すれば克服できる」と高をくくっているところがあった。だが、高校生にもなってこんな失態を繰り返せば、さすがに誰もが激怒する。親はもとより、人の好い塾の先生までが仏頂面で絶句してしまう始末だった。ここまできて、僕はいよいよ自分の異常さを本気で自覚するようになる。ADHDという根っこに辿り着くまでの、長く過酷な自己探求の始まりだった。

 

それはさておき、学業の問題を巡って、僕は父親とささいな事件を起こしてしまう。だが、その話に入る前に、ここで時間を十年ほど遡り、きちんと父親との関係を語っておきたい。書くのは辛いのだが、僕は幼少期より、父親からあらゆる形の虐待行為を「これでもか」というほど行使されてきた。

 

もともとは子煩悩な父親だった。夕食前には僕や弟を散歩に連れて行ってくれたし、肩車をしてもらった記憶もある。それが豹変したのは、僕が幼稚園に入ったばかりの頃だっただろうか。

 

最初にターゲットになったのは弟だった。理由はまったく分からないのだが、泣きじゃくりながら裸足で庭へと逃げる弟を、父親が鬼の形相で追いかけてゆく様子をはっきりと覚えている。父親の不機嫌な状態は何日も続いた。そして、とうとう凶行の矛先が僕へと向けられるときがきた。ひどく冷え込む冬の日、突然襲い掛かってきた父親は、もう真夜中なのに僕ひとりを家の外へと放り出したのだ。弟のときと同様、理由はまったく分からない。鍵をかけられ、カーテンで塞がれた窓に向かって、僕は声を枯らしながら許しを乞い続けた。ヒステリックに壁を叩いたりしたが、窓は何時間も閉じられたままだった。

 

父親は心理的虐待も凄まじかった。なかでも耐えられなかったのは、大切にしていたおもちゃを目の前で破壊したり、窓から放り出すことだった。この行為は僕らが中学にあがる頃まで続けられ、弟などは高価な鉄道模型を踏み潰されたりした。あのときの弟の獣のような悲鳴は、いまでもありありと思い出すことができる。

 

これがテレビドラマであれば、泣きじゃくる母親が捨て身で父親に立ち塞がってくれたりする。だが、現実の母親は見て見ぬふりをするだけだった。それどころか、まるで夫に媚を売るかのように、一緒になって僕らに辛く当たるようになった。その後の人生で、僕が男女の恋愛にどこか否定的な感情をもつようになったのは、この体験によるところが大きい。

 

(それから何十年も経て、母親は父親が心を病んでしまった理由を打ち明けてくれた。虐待が始まったちょうどその頃、勤務先の精神病院で入院患者の自殺があったらしい。父親はマスコミに事故を報じられることを極度に恐れ、追い詰められていったという)

 

さて、幼稚園や小学校まではやられっ放しでも、子どもはやがて反抗期を迎え、自我に目覚めるようになってゆく。とりわけ僕は中学・高校と体力づくりに励んだため、腕力では何となく「父親に勝てる」と自負するようになった。テレビのニュースでは、時おり高校生が父親を金属バットで叩きのめすような事件が報じられている。もちろん僕はそんな一線を踏み越える気はなかったが、自分と同年代の少年が力で男親を打ちのめしているという事実は、戦前までの家父長的な価値観が廃れつつあることを意味していた。

 

長くなったが、話を冒頭に述べた父親との事件に戻そう。

 

内容はよく覚えていないのだが、その朝も父親は何か学業のことで小言を言った。いつものように、こちらが何も言えずに縮こまってしまうと思っていたのだろう。だがその日の僕はいつもと違った。自分のなかで自信と怒り、覇気と憎悪とが入り混じり、毅然とした態度で「黙れ」とやり返したのだ。もう、あんたの言いなりの息子じゃない。僕は容易に父親を怯ませることができると思った。

 

だが甘かった。逆上した父は僕の首を抱え込み、たちまち畳にねじ伏せた。僕は全力を込めて身体をよじり、反撃に転じようとした。だが、どうしても首にかけられた父親の腕を外すことができない。必死で背中を殴りつけるので精いっぱいだった。

 

どうなっているんだ。相手は衰えていく一方の中年じゃないか。こちらは奴より背も高いし、腕力も鍛えたはずだ。それなのにこいつはびくともしない。反撃らしい反撃もできずに痛めつけられているじゃないか——

 

結果的に、僕は暴力で父親に負けた。

 

弓道部の試合の一件と並んで、この事件は僕に克服しようのないコンプレックスを植えつけた。これからも、僕は長い人生のさまざまな場面で理不尽に出くわすだろう。ときには剥き出しの暴力に遭遇するかもしれない。だが、僕はそんなときに何もできない人間だということを思い知らされた。きっと愛する者を守ることもできず、指を咥えて言いなりになるしかない。こんな人間が、この先も生きてゆく価値があるのか。この思いを払拭するにはどうしたらいいのだろう。

 

これはいまでも確信していることだが、もしもあの取っ組み合いで父親を圧倒していたら、その後の自分の人生は間違いなく変わっていたと思う。圧倒といっても、テレビで報じられている家庭内暴力のように大怪我を負わせるつもりはない。乱闘をするふりをしつつ親を気遣い、手加減をしながら適当なところで止めにする。そんな余裕も出てくるほどの腕力が欲しかった。高校生二年生の男子であれば、誰でもあたりまえに備わっている普通の力だ。だが僕にはそれがない——

 

さて、父親との格闘戦にけりをつけたのは、数学の塾の先生からの電話だった。こともあろうに、僕はその日も塾があるのを忘れてしまっていたのだ。父親は「駄目だねえ」と勝ち誇ったように言い、庭へ出て行った。僕はそそくさと出かける準備にかかった。

 

心理学によれば、人間にとって17~8歳頃というのは自我を決定づけるために大切な年頃なのだという。そんな時期に、僕は自信とか自尊心というものを徹底的に打ち砕かれてきた。弓道部は完全な幽霊部員となり、二学期の頃にはほとんど顔を出さなくなっていた。かわりに打ち込んできた事といえば、下校時に立ち寄るゲーセンのシューティングゲームくらいのものだ。学業の低下も深刻だった。社会科が苦手なのは相変わらずだったが、得意だったはずの理系科目や英語までが、テストをするたびにどんどん点数を下げてゆく。まともな大学への入学など、ほとんど望むべくもない状況に追い込まれていた。

 

それでも僕はプライドを取り戻そうと必死だった。無理にでも交友関係を広げるため、文化祭の出し物などにも積極的に参加したが、かえって周囲から浮くばかりでひんしゅくを買った。他の場面でも出しゃばり過ぎたのが仇となり、クラスの友人も次々と離れてゆく。修学旅行前のミーティングで列車の座席を決める際、先生は好きな友だちのとなりに座ることを許してくれたが、僕のとなりの席だけ希望者がいなかった。

 

ただひとつ、絵を描くことだけは相変わらず得意だった。

 

いつもクラスで浮いてばかりの僕が、美術の時間だけは全員から尊敬の目でみられた。生まれて初めて描いた油絵を、女子から「欲しい」と言われたこともある。そんな折、必修クラブで美術部員と話す機会があった。彼によれば、部員の多くが美術大学に進路を定め、夏休みの受験講習にも参加しているという。

 

そうか、もしかしたらその世界で生きてゆく道もあるのではないか。低迷する偏差値に絶望していた僕は、やっと見つけた活路に全力を尽くすことを決心した。

 

続く

 

 

 

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ADHDとして生きるということ⑦ 高校(中編)

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前後して申し訳ないが、時計の針を高校入学の頃に戻させていただく。

 

中学時代の地道な筋トレが功を奏し、僅かながらも運動能力の向上に成功した僕は、高校へ上がると弓道部へ入部した。もちろん、これまでのスポーツに対するコンプレックスを払拭するためだ。

 

種目に弓道を選んだ理由はふたつある。ひとつは根っからの軍事オタクであり、弓矢やゴム鉄砲からゲーセンの機関銃まで、あらゆる飛び道具が大好きだったこと。もうひとつは、何となく運動神経のない者でもこなせそうなスポーツに思えたことだった。

 

その年、弓道部に入部した男子は、僕を含めて三人いた。ひとりは高価なモデルガンやエアガンを集めているマニアであり、もうひとりは勉強はトップだが極度の運動音痴だった。つまり、ふたりとも僕と似たような動機でやってきたらしい。

 

部活そのものは楽しかった。伝統武具である日本の弓は、初めての者がいきなり矢を放てるものではない。最初は「ゴム弓」というパチンコに似た道具を使い、その次は矢をつがえないで弓を引く「素引き」を練習して、体の型や動かし方のコツを覚えてゆく。それができるようになったら、俵によく似た「巻き藁」に向かって至近距離から矢を放つ。最初はこれがうまくいかない。どうしても矢が弦からこぼれ落ちそうになるし、矢ばかりを意識すると体の型がおかしくなっていく。

 

なんとかコツをつかんで矢を射れるようになると、いよいよ道場に立つことが許された。28m先に置かれた的は想像以上に遠く、小粒の点にしか見えない。その点に向かって慎重に狙いをつけ、初めて射抜いたときの爽快感は、弓道をたしなむ者であれば誰でも経験するものだろう。

 

練習に励んだ甲斐あって、僕とガンマニア君はすぐに的を射るところまで上達した。だが、もうひとりの運動音痴だけか上手に弓を引くことができない。それどころか、基礎体力のない彼は準備運動にもついてゆけず、メニューの半分も終わらないうちにリタイアしてしまう。

 

僕は彼をいたわるふりをして、内心ほくそ笑んでいた。夏休みが終われば一年生にとって初めての公式大会がやってくるが、こういう劣等生がいれば、僕の大会出場は確実なものとなる。劣等感の強い者とって、「自分よりも下の人間」ほど有難いものはないのだ。

 

ここまで歪んだ性格だったのか、と自分でもあきれる。それでも「まともなスポーツ競技に参加したい」というのは、僕の切実な願いだった。小学校の運動会でも、中学校の部活でも、いつでも僕は同級生が大活躍するのを眺めているだけだった。大きな公共体育館も、美しい県営グラウンドやナイター完備のスタジアムも、何もかもが遠い世界のものに思えた。いつかあの場所に立ってみたい——その痛いほどの思いが、弓道と出合ったことでようやく叶えられようとしている。チャンスを手放してなるものか!

 

大会を目指して自主的な朝練習も行った。休日に登校してひとりで矢をうちまくったこともある。都会の人には信じてもらえないかもしれないが、僕の自宅から高校までは8キロの距離があり、それを毎日自転車で通った。休日を押しての登校がどれほどの気力を要するかはお分かりいただけるだろう。

 

だが、残酷にもこの努力は水泡に帰した。結論を言えば、一年生で僕だけが大会に出してもらえなかったのだ。

 

ガンマニア君はもとより、あの運動音痴の秀才までが大会メンバーに抜擢された。僕らに出遅れた彼は、部活に加えて社会人主催の弓道教室にも通い、懸命に努力を重ねてきたのだった。誇らしげに大会へと臨むその背中に、僕は「なりたかった自分」をみて嫉妬した。女子の一年生部員が全員出場できたのも屈辱だった。いったい僕のまわりの何が狂ってしまったのだろう。

 

大会の出場者を決めていたのは三年生の元部長だった。彼はこのような仕打ちをした理由を説明してくれなかった。黙って僕の名前のない出場者リストを手渡しただけだ。「お前のような下手くそには説明の必要もない」と言わんばかりだった。

 

たしかに弓道の腕前が群を抜いていた訳ではない。何よりも、僕は弓を引くときのフォームが悪かった。アーチェリーや射撃と異なり、弓道は的への当たり外れだけでなく、矢をつがえ、弦を引き、放つまでの動作の美しさが求められる。それが命中率にも大きく繋がってゆくのは事実だが、有段者試験のような場ならともかく、高校生の試合でそこまでを問うのはかなり厳しい。ガンマニア君や一部の二年生も「君だけ出さないのはおかしい」と言ってくれたほどだ。

 

それでも問題があったとすれば、「会」と呼ばれる動作の欠陥だろうか。これは弓を引ききってもすぐ矢を放たず、しばらくその姿勢を保持することだ。ところが初心者は「早く的を射たい」という気がはやり、つい弦を離したくなってしまう。僕はそれが極端にひどかった。だが、似たような欠点のある一年生は、女子を含めて数人はいる。やはり納得できなかった。

 

もしかしたら、単にこの三年生が僕を嫌っていたことが原因だろうか。もともと体育会肌ではない僕は、先輩に対する態度が少々横柄なところがあった。そんな可能性があったのなら、僕はなぜ彼にその旨を詫びて大会に出してもらおうとしなかったのだろう。それでも駄目なら顧問教師に直談判する手もあったではないか。いまとなっては悔やまれることも多いが、無理に抗議までして大会に出ても、本当に僕の心が満たされることはなかったかもしれない。ただ確実なのは、この一件がその後の人生を狂わすほどの傷を残したということだ。

 

(上に述べた「会」に限らず、弓道という競技は精神的な自己抑制が求められる。平たく言えば「常に落ち着いている能力」だ。僕のような混合型のADHDにとって、これほど不向きなスポーツはなかったといまでは思う)

 

大会に出られなかったことで、他の部員が僕を見る目もだんだん冷ややかなものになってゆく。よせばいいのに、こちらも舐められまいと高圧的に接するから、二年生からも反感を買うことが増えていった。女子部員らも「あの人いつも威張ってるけど、弓がすごく下手なんだよ」との噂を密かにばら撒いているらしい。僕はますます荒み、人当たりがきつくなっていった。特に人の好いガンマニア君には八つ当たりを繰り返し、ひどく嫌な思いをさせてしまった。

 

部活とは疎遠になる一方だったが、それでも一年生のうちはクラスに自分の居場所があった。あのクラスは非常にまとまりがよかったし、僕もまた友人関係を壊さないよう努力してきたことは前回書いたとおりだ。だが、二年に進級すると状況は一変する。クラス替えが行われたために、すこぶる性格の悪い連中とも机を並べなければならなくなったのだ。

 

こちらが何をした訳でもないのに、彼らは新学期から辛くあたってくる。ほとんどが会話もしたことのない面々だ。にもかかわらず、それほど彼らが僕を嫌っていたのはなぜなのか。

 

原因は、やはり歩き方や目つきなど、僕の見た目がことごとく不気味であったためらしい。そういう印象を払拭するために、僕は入学当時からあらゆる努力を惜しまなかったが、その努力はクラスの外には及ばない。他クラスの一部の者は、昨年からずっと僕の異様さに目をつけていた。それが二年生から同じクラスになってしまったという訳だ。

 

一般人の感覚でみたら、やはりADHDの醸し出す雰囲気は不気味でしかないのか。それでも僕は彼らとの関係修復に努めた。無理に話を合わせようとすり寄っていったが、噛み合わずにバカにされるだけだった。

 

気がつけば僕は孤立していた。まるで小中学校時代の惨めな日々に引き戻されたようだ。話の合う友人もいたが、みな同じように周囲から浮いている者ばかりだった。せっかく同じ趣味を持つクラスメートもいたのに、彼がイジメに遭っていたことを理由に、僕は敢えて遠ざかっていった。こいつらと同じにはなりたくない。僕はもっとメジャーなポジションでいたいんだ——。

 

いまから思えば、何て愚かな虚栄心だったのだろうと悔やまれる。もしもなり振り構わず彼らと交流していたら、僕の高校生活はどれほど充実したものになっていたかもしれないのに。

 

現在の僕が、気の合う相手であればニートだろうがオタクだろうがとことんつき合うことにしているのは、あの頃の苦い後悔があってのことなのだ。

 

続く

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ADHDとして生きるということ⑥・高校(前編)

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——高校へ行ったら、自分はきっと生まれ変わってみせる——

 

中三までの惨めな日々との決別を誓って、僕は共学の県立高校へ進学した。ここで人生を変えられなかったら、きっと死ぬまで後悔することになる……何とも青臭い思い込みだが、当時は真剣だった。

 

同級生のなかには同じ中学から進んだ顔ぶれも混じっていた。性格の悪い奴でもいたら嫌だったが、男子に限ってみれば、僕と不仲だったような者はほとんどおらず、とりあえずは安心した。

 

だが、問題なのは女子の方だ。

 

決して大人数ではないが、中学時代にとりわけ僕を忌み嫌っていた女子数名が、いくつかのクラスに点在している。おかげで毎日、気が気ではなかった。遅かれ早かれ、連中はまた残酷な噂をばら撒くに決まっている。僕への先入観をまったく持たず、いまのところ普通に接してくれている多くの女子たちが、いつあの連中に感化されて豹変するかもしれない。それが何よりも怖かったのだ。

 

朝の教室へ入るたびに、女子全員の視線がいちいち気になる。明らかにパラノイアの状態だ。彼女らの会話には始終注意し、僕の話題が交わされていないかと聞き耳を立てる。少しでも妙な目つきを向ける子がいたら、何気ない会話をふって「無視されはしないか」と確認する。何があっても中学校時代の悪夢を再燃させてなるものか。

 

僕は必死で人気者になろうとした。目つきに気をつけ、喋り方に注意し、腋臭の薬を片っ端から試してみる。品のない猥談は慎んだ。体力づくりのトレーニングにもいっそう励んだ。その甲斐あってか、高校一年のあいだは、まあ穏便に過ごすことができたと思う。恋人がいた訳ではないが、共通の話題を交わせる女子の友だちが数人できた。中学時代と比べたら大きな前進だ。男友だちもできた。下校時に寄り道する楽しさも覚えて、大勢の友人といっしょに繁華街へ繰り出し、ゲームセンターで得点を競い合う。ひとりでゲームに興じていた中学時代とは大違いだった。

 

これほど快適な一年をすごせたのは、クラスがとても良くまとまっていたことも大きい。いじめもなく、仲間外れも皆無の集団というのは、なかなか巡り合うことのできない有り難いものだ。ただし、僕たちは単なる友情だけで結束していたのではない。背景には、校内に蔓延していた教師の暴力があった。それに対する反発心を共有することで、仲間意識を強くしていたのだと思う。

 

まず担任の男性教諭が悪質だった。気に入らない生徒に目をつけ、事あるごとに揚げ足をとっていたぶるのだ。なかには朝礼で連日罵倒される男子もいた。彼はすぐに不登校となり、挙句に学校を中退してしまう。僕はその後も彼と交流を続けたが、彼の母親はことあるごとに「あの先生さえいなければ」と恨み節をこぼしていた。

 

他にも問題のある教師は多かった。なかでも札付きの人格破綻者として有名だったのが、初老の生物教師だった。戦時下を軍隊で過ごした後遺症なのか、授業中に物を投げたり、生徒に平手打ちを喰らわすのはあたりまえ。なかには顔面をスリッパで連打された者もいたらしい。

 

ひどいのは体罰ばかりではない。授業の内容も無茶苦茶だった。

 

生物学の用語や単位というものは、年を追うごとに表記基準が改正される。たとえば当時(現在でも)の教科書では「キロカロリー」は「kcal」と表記されたが、その昔は「Cal」と書いていたらしい。これらの表記は最新の計量法やSI単位に倣うことが教科用図書検定基準で定められているはずだが、このふざけた生物教師は教科書に従わず、「kcal」ではなく「Cal」と書くことを強要した。もしもテストで「kcal」と書いたら「マイナス20点だ」などと言い放つ始末だ。その他の生物用語についても同様で、臓器器官や細胞の部位など、あらゆる分野で廃止されている呼称ばかりを覚えさせられた。これでは大学受験に臨むなど論外だ。

 

さらに極めつけだったのは、彼はテストの解答で旧仮名づかいを使わないと不正解にした。信じてもらえないかもしれないが、「ニワトリ」を「ニハトリ」と記入しないと✖にされるのだ。この話は学校中に知れ渡っていて、他の教師は笑いを取るためのネタにしていた。校長率いる教師陣がこの暴挙を知りながら黙認していたのは間違いない。

 

僕たちは黙っていなかった。クラスが一致団結して担任教師を呼びつけ、全員で吊し上げようということになったのだ。(さすがにスリッパを振りかざす生物教師を呼び出すのは怖かったので、不幸な担任がターゲットになった)

 

血気盛んな行動の背景には、あるテレビドラマの影響もあった。当時から中高生に人気のあった「3年B組金八先生」の第2シーズンだ。クライマックスは数ある金八シリーズの中でも屈指の傑作とされているエピソードで、教師の暴力に傷つけられた不良少年が抗議行動を起こし、校内放送で校長らに謝罪を迫る物語が描かれている。これに感化された僕たちは、「うちのクラスでも同じことをやろうぜ」と盛り上がってしまった。

 

虚構と現実の区別もつかないバカさ加減に我ながら呆れる。顔から火が出る思いとはこのことだ。当たり前だが、こんな目論見がドラマみたいにうまくいく訳がない。

 

反乱決行の当日、僕たちのほとんどは教室に残った。みな机の上に座ったり、足を組んだりと、精いっぱいの示威的なポーズで対決に備えている。だが、誰が職員室へ担任教師を呼びに行くのか。いざとなると、みんな顔を見合わせるだけで動こうとしない。結局腰を上げたのは、体育会系の気丈な女子の二人組だった。

 

とうとう担任がやってきた。まだ何も知らされていないのか、顔が穏やかに笑っている。僕はクラス全員が怒り狂い、野獣の群れと化すような場面を想像した。その混乱に紛れて(せ、せこいなあ…)僕も担任に敢然と立ち向かうつもりでいたのだ。が、教室は完全に沈黙している。ついさっきまで多くの男子が息巻いていたのが嘘のようだ。やっとのことで若干名がおずおずと抗議を試みたが、意気がる思いとは裏腹に、つい敬語が出てしまうありさまだった。

 

黙り込んでいるクラスメートを尻目に、僕はとうとう声を上げた。自分でも驚くほどの勇猛さだった。しかし、ここでADHDの致命傷である早口が出てしまう。セリフを懸命に喋っても担任には通じず、苦笑いを返されるだけだった。

 

膠着状態を打破したのはひとりの女子だった。毅然とした態度で担任と向き合うと、生活指導で深く傷つけられたことをぶちまけた。内容は当事者にしか分からないことも多かったが、どうやら彼女の交遊関係を「非行」と決めつけた担任が、本人ではなく親に注意勧告をしたことが辛かったらしい。彼女は猛烈な抗議を続けた後で号泣した。担任はおろおろとなだめるしか術がなかった。

 

翌朝、担任はいつもより長めのホームルームを行った。冒頭で説教じみたプリントを配ったのは気に入らなかったが、冷静に僕らと話し合おうという思いは伝わってきた。滑稽で情けない反乱ではあったが、担任もそれなりにショックを受けたのだろう。生徒を退学するまで追い詰めることもなくなった。

 

教師という共通の敵をもつことで、僕たちはみなまとまった。優等生もツッパリも運動部員もアニメのマニアも、みんなクラスの仲間だった。なかには極端に無口な生徒も数人いたが、彼らをイジメる者など誰もいない。こんな連中と出会えたのは初めてだ。このまま高校生活の三年間が過ぎていったらどんなに素晴らしいことだろう……。

 

だが、現実はどこまでも残酷だった。二年生に進級し、クラスメートと散り散りになってしまったとたんに、僕はふたたび人生の試練に巻き込まれることになる。

 

続く

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ADHDとして生きるということ⑤・中学(後編)

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中学に上がると、僕にもそれなりに友だちができるようになった。漫画やプラモデルに出会ったことで、何かに打ち込む喜びも覚えた。だが、クラスの女子との軋轢はますます悪化の一途を辿り、何をやっても嫌われ続けることになる。

 

初めて異変に気づいたのは、夏休みが過ぎ、二学期も中盤に差し掛かった頃だった。

 

彼女らに直接何かを言われた訳ではない。ただ、いくつかのグループが、僕が近づくだけで妙な反応をする。全員がさっと顔をそむけたり、口元をおさえて薄笑いを浮かべたりしながら、露骨にこちらから去ってゆくのだ。もちろん何も話しかけてくれない。こちらが話そうとしても何も答えず、ことごとく無視される。理由は「気持ちが悪いから」らしい。

 

異様な目つきや喋り方、歩き方や運動神経の欠如など、もとは発達障害や身体的欠陥に端を発したマイナス因子は、成長とともに精神を蝕み、二次障害という負のスパイラルを拡大してゆく。おかげで人の目をみて話すのも苦手になった。表情もますます陰鬱さを増した。多感な年頃の女子からみれば、僕は受け入れがたい化け物にまで変容していったということなのだろうか。

 

さらに悪いことに、僕はこの頃から腋臭がきつくなっていた。入浴時には擦り切れるほど脇を洗っているのに、翌朝になるとまた悪臭が鼻をつく。祈るような気持ちで、テレビCMでおなじみの消臭スプレーを試したが、宣伝とは裏腹に効果は弱い。むしろ柑橘系の香りと腋臭とが混沌と入り混じり、ますます嫌がられた。

 

髪型も不気味だと言われた。これもADHDの特性なのか、当時の僕は毎日洗髪するということができず、理髪店に行っても「汚い頭だな」と言われていた。さすがにまずいと思い、こまめな洗髪を心掛けるようになったのだが、うちにはなぜかドライヤーがない。やむなくタオルで必死に拭くしかないのだが、当然ながら、一夜明けるとひどいくせ毛になってしまう。蒸しタオルを押しつけ、遅刻ぎりぎりまで髪を整える毎日だった。

 

ところで、ありきたりな家電であるドライヤーが、なぜ我が家にだけ備わっていなかったのか。実をいうと、僕の両親は、こと身だしなみに関しては世間と妙に感覚がずれているところがあった。もう気づかれたかもしれないが、彼らもまた発達障害であった疑いが濃厚なのだ。学校の担任教師が「僕がだらしないのは親のしつけのせい」と考えたのも、もしかしたら両親の雰囲気をみて察するところがあったのかもしれない。

 

さて、中学生といえば性に目覚める年頃でもある。ワイドショーが報じるわいせつ事件はクラスの話題になるし、少年漫画の過激な性描写も人気だった。なかには修学旅行で女湯の覗きを敢行する猛者もいた(誓って僕は加わってません)ほどで、際限なく情欲に狂う雄どもは、女子らの嫌悪の的となった。

 

そんな折、毎朝の通学路では、児童に卑猥な言葉を浴びせては去ってゆく初老の男が出没するようになった。もしかしたら認知症だったのかもしれないが、正体は今もって分からない。こともあろうに、クラスメートは僕をこの男と似た渾名で呼ぶようになった。挙動不審な様子がそっくりだということらしい。

 

性的異常者と同一視されたことで、女子らの僕に対する憎悪は決定的なものとなった。廊下で僕とすれ違うたびに、みんなわざとらしい悲鳴を上げて逃げてゆく。手が少しかすっただけでも、まるで汚物が触れたような顔をされた。僕の心は壊れた。なんとかメンタルのバランスをとるために、自分よりももっと弱いクラスの男子を徹底的にいびって憂さを晴らした。一度だけ、彼のノートを覗き見たことがある。太い文字で一面に「バカ」「死ね」などと書き殴られていた。ネタのように思われそうだが、本当のことだ。

 

家へ帰ると、今度は弟や妹をいたぶった。精神的に、肉体的に、さまざまな方法を使って暴力を行使し、泣き叫ぶまで続ける。根を上げた弟は、ある日僕に向かって「家に帰った時、お前がいないとほっとするんだ」とまで言い切った。僕は自分のしたことにショックを覚えたが、すぐに怒りへと変わり、苛めをエスカレートさせていった。

 

両親は懸命に弟たちを庇った。弱いもの苛めに暴走する僕は、もはや家族の厄介者でしかなかった。冷静に考えれば当然の報いなのだが、当時の僕の目には、出来の悪い長男ひとりを見捨てた許しがたい虐待と映った。もう家にも学校にも居場所はない。僕はデパートやボーリング場のゲームコーナーに通った。伝説のインベーダーゲームが登場する以前のチープなゲームだが、やり込むうちに腕前が上がり、他の子らが背中で見物するほどになった。ギャラリーのなかには女の子もいた。他の中学の制服を着た見知らぬ子だった。

 

そうだ。高校へ行けば、クラスの残酷な女どもから解放されるかもしれない。僕への偏見に染まっていない他校から、多くの女子が進学してくるからだ。彼女らのなかには、きっと僕を理解してくれる人もいる。恋人なんて贅沢なことは言わない。ただ、ごく普通に会話ができる相手が見つかれば充分だ。僕は一縷の望みにすがりついた。高校受験のセミナーにも積極的に通うようになった。

 

勉強だけではなく、スポーツにも打ち込むようになった。高校に上がったら、いままでとは違う自分に変わってみせる。切ない妄想だが真剣だった。基礎体力作りのため、腕立て伏せや逆立ち、腹筋背筋などを、部屋の畳が擦り切れるまでやり込んだ。短い期間だが、無理をして運動部に入ったこともある。やればできるもので、それまで体育は「2」しか取ったことのない僕が、三年生以降は「3」が取れるようになってきた。大人になった現在、友人にこの話をすると100人中99人は「レベルの低すぎる成長だ」と大笑いするが、それでも僕はこの経験を自分の勲章だと思っている。

 

まあ、急に向上心が芽生えたところで、学力が飛躍的に向上するはずもない。漫画ばかり描いていたのが仇となり、僕は県下の名門校には及びもつかない分相応の共学高校に進学した。友人関係が一新したところで、これまでの惨めな日々から真剣に脱却することを心に決めつつ、僕は始業式に臨んだのだった。

 

だが現実は甘くはない。ADHDという残酷な障害は、その後も僕の人生を狂わせ続ける。あらゆる努力はすべて無に帰してしまうのだった。

 

続く

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ADHDとして生きるということ④・中学(前編) 

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小学校の高学年になると、僕は県立大学付属中学校の受験を目指して猛勉強を強いられた。平日はもとより、日曜祭日も母親が付き添い、朝から晩まで机に縛りつけられるのだ。子どもらしい娯楽は取り上げられた。楽しいはずのゴールデンウィークや夏休みも犠牲になった。おかげでクラスメートのテレビの話題にもついて行けなかったことは、すでに書いたとおりだ。

 

だが、それでも僕は受験に失敗した。

 

この付属中学校というのは県下唯一の国立中学で、入学試験を突破するのは難関だ。それだけに、ここへ入れば名門高校への進学の可能性も高くなる。平たく言えば市内で最も頭のいい子どもが通う学校で、校章付きのワイシャツを着た「付属の子」は、町中どこへ行っても羨望の的だ。この「付属の子ブランド」は、おそらく現在の同市でも健在と思われる。

 

僕には弟と妹がいるが、ふたりとも受験に受かった「付属の子」だった。彼らばかりではない。僕の母も、母の兄弟も、みんな同校を卒業した先輩だ。惨めな不合格に終わったのは僕だけだった。こうして、僕はありきたりな市立中学へと進学した。

 

もちろん両親の心中は穏やかではない。こんなスタート地点でつまづくなんて、この子の将来はこの先どうなってしまうのだろう……。

 

かわいい長男を人生の落伍者としないために、中学へ上がると、兄弟で僕だけに家庭教師をつけるようになった。それでも安心できなかった父は、自作の数学問題を考えては僕に解かせるようになった。どれもが多忙な病院勤務の合間をぬって書き上げた労作だ。だが、僕はなかなか解くことができない。父は結果を出せない息子に激怒した。いわゆる昭和の壮絶な「しつけ」が日常化していったのだ。夕食が終わり、勉強の時間が始まると、家じゅうに罵声が飛び交い、泣き声があがる。僕はますます勉強に嫌気がさしていった。成績は下がる一方だった。

 

さらにもうひとつ。僕の学業を妨げる要因が別にあった。

 1970年代に「おたく」という言葉はなかったが、僕は漫画が大好きだった。ただ読んで楽しむだけでは飽き足らず、自分でストーリーを考え、ノートや広告チラシの裏面にコマ割りをして自作漫画を描くようになった。漫画だけでなく戦記小説も作った。空地を歩きまわってファンタジーを空想するだけでも楽しかった。幼少期から過酷な日常を過ごしてきたせいか、とにかく架空の物語を創作することが、僕にとっては何よりの趣味となっていたのだ。

 

漫画を描くことで、僕はクラスの友人たちと繋がることもできた。小学校では図工が「2」ばかりだったにも関わらず、何度も漫画を描いているうちに、一部の友人からイラストをねだられるほどの腕前になっていたのだ。漫画ばかりではない。いつのまにか美術の成績も向上し、中三の三学期に初めて「5」を取った。その後も絵を描くことが楽しくなり、高校の三年間もほとんど「5」ばかりが続くようになる。漫画家のなかには、専門学校でデッサンや水彩画に打ち込み、しっかり「普通の絵」の基礎を身につけてから漫画へ応用してゆく人がいるが、僕の場合はその逆で、漫画で培った画力や感性を「普通の絵」へと転用していったように思う。

 

話を戻そう。

 

家庭教師やら父の一件などはあったにせよ、中学生ともなると、さすがに親が付きっきりで勉強を見るようなことはなくなった。それをいいことに、僕は部屋で勉強している振りをしながら漫画を描くことを覚えた。息をひそめながら創作に没頭しつつ、親の近づく気配がしたら、問題集を広げて作品を隠すやり方だ。この方法がうまくいくと、今度は大胆にもプラモデルに手を出すようになった。机の引き出しに手を入れながらプラモデルを組み立て、親が近づくと「さっ」と閉めてごまかす。こんなことを続けていたのだから、成績が下がって当然だった。

 

現在の知識で分析するなら、これも発達障害の特性のひとつで、何かに没頭し始めたら止まらない「過集中」の事例だろう。ここで考えていただきたいのは、この特性が必ずしも偉人賢人を生み出す原動力となるとは限らないということだ。基礎学力を身につけなければならない大切な時期に、学業そっちのけで趣味にのめり込んでいたらどうなるか。まかり間違えば、人生そのものを台無しにしてしまう元凶ではないか。

 

「でも、有名な漫画家なんて、みんな子どもの頃に勉強そっちのけで漫画を描きまくっていたんじゃないか」とあなたは反論するかもしれない。だが、僕の知る友人の限りでいえば、漫画のうまい人というのはおおむね学校の成績もよい。自分を律することを知っているからこそ、何事にも効率よく打ち込み、結果を出すことができるのだと思う。

 

それに、もしも僕が令和の時代に生まれていたら、漫画ではなくスマホゲームの中毒になっていた可能性もある。課金も歯止めがかからなくなり、親は何十万円もの請求書に驚愕したことだろう。事実、発達障害(特にADHD)と依存症との関連性を指摘する専門家は多い。過集中とはそれほど恐ろしい「症状」であり、決して「特性」などという生易しいものではない、と釘を刺しておこう。

 

だが、当時はADHDという言葉さえ存在しなかった。寝るのも忘れて漫画を描き続けることができるのは、ひとえに自分の才能だと思いあがっていた。画材店で本格的な漫画の道具を揃えた僕は、相変わらず親を欺き、創作を続けた。

 

こんなことが、むろんいつまでも続くはずはない。

 

最初にバレたのがプラモデル作りだった。部屋に接着剤の臭いが充満していたために、母親がおかしいと気づいたのだ。それから漫画も発覚したが、こちらは学校の必修クラブで「漫画研究会」に属していたので、その活動の一環だと申し開くことができた。

 

もっとも僕は、そのときまで「漫画研究会」に入っていたことを話していなかったため、ますます母を逆上させることとなった。口論の末、僕ははずみで「将来漫画家になりたい」などと口走ってしまう。

 

まあ、息子からこんな話をされたら、どこの親でも懸命に止めるのが人情だろう。だが僕の母親は言い方が陰湿だった。自分が尊敬してやまない手塚治虫を引き合いに出し、彼の漫画と僕のそれとが、いかに似ても似つかないかを並べ立てるのだ。

 

いわく、手塚治虫は小学生の頃から写真と見間違うような昆虫のスケッチを描いていた。テレビでは下書きもせず、フリーハンドで見事な「百鬼丸」を描いて見せた。だけどお前はどうなの、あんなことができるの、何が「漫画家になりたい」よ……。

 

それでも僕は漫画を止めなかった。家で親の目を盗んで描くばかりではなく、学校へ行っても、教科書の隅やらノートやらに描きまくった。もちろん授業に身が入る訳がない。だけど構うもんか。僕はいつか東京へ行って漫画を出版社に売り込むんだ……。

 

そういえば、僕の漫画は東京を舞台にしたものばかりだった。背景にはビルが立ち並び、合間をぬって高架線の列車が走ってゆく。窓辺に広がる山ばかりの景色を眺めながら、僕はまだ見ぬ大都会の「何かが始まる予感」に惹きつけられていた。

 

続く

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