sonicstepsのブログ

トットちゃんが妬ましい。エジソンを目指すとかあり得ない。 一部の成功者らの美談はさておき、多くの当事者にとって、発達障害はやっぱりつらい。 おまけに憎い。何よりそいつはかけがえのない人生を奪った元凶なのだ。 だけど……それでも僕らは生きてゆく、終わることのない絶望の毎日を。

僕は50過をぎても発達障害をやってる冴えない中年男です。エジソンやジョブスがどうかは知りませんが、僕自身にはさしたる個性も才能もなく、人生の敗残者として悶々とした日々を送っています。このブログで取り上げる発達障害者とは、一部メディアが持ち上げるような「障害を素晴らしい個性へと開花させた成功者」のことではありません。僕と同じく底辺を這いずる圧倒的多数の当事者たちに捧げるものです。

ADHDとして生きるということ③・思春期

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あまたの例外はあるものの、発達障害のある人たちの中には、極端に異性にモテないケースがあるように思う。

 

理由はいくつも考えられる。まず、発達障害の多くはいわゆるオタクだ。趣味はたいていマニアックだから、話題を共有できる相手は限られている。だから、まれに似たようなマニアの異性に出会うと目の色を変える訳だが、現実は厳しい。アスペルガーであれば他者の気持ちを読み取るのが難しいし、ADHDは平気で恋人の誕生日を忘れてしまう。おまけに会話は直球ストレートが多いから、恋愛の必須である心の駆け引きが難しい……とは、ネットでよくみられる専門家たちの指摘だ。

 

それにもうひとつ。人によっては、発達障害の特性が身だしなみに現れることもある。こういうタイプの場合、服装は流行にはほど遠いし、女性だったら髪が手入れ不足だったり、男性なら不精髭を伸ばしていたり、といった具合だ。そんなことを書くと「偏見だ!」と言われそうだが、全身に不潔感の漂う発達障害者というのは、当事者会の場でときおり見かけることがある。

 

他ならぬ僕自身が、子どもの頃からそうだった。

 

すでに書いたが、少年時代に整理整頓の苦手だった僕は、給食のパンの食べ残しを机の中に忘れ、カビが生えても放っておいた。こんなことを繰り返していたのだから、当然女子からは嫌われる。

 

おまけに僕は身の廻りのことをこなすのが苦手だった。小学校の高学年になっても歯を磨かず、爪も切らず、入浴時の洗髪もほとんどしない。その髪は翌朝もほったらかしで、乱れ放題のまま登校する。ハンカチを持参することもほとんどなく、ずぶ濡れの手をシャツの裾で拭いて済ませてしまう。服装も極端にだらしなく、いつも襟や袖口が汚れていた。

 

不潔感に加えて、喋り方も気味悪がられた。それもまたADHDの典型的な特性のひとつなのだが、とにかく早口で落ち着きがない。あるとき自分の声を録音で聴いて、あまりの異常さに「ぞっとした」ほどだ。(実は、これは大人になってもどうしても克服できない欠点のひとつで、いまだに方々から「直せ」と責められている)

 

それからもうひとつ。これは発達障害とは関係ないが。僕の両足は「内翻足」といって、内側を向いて曲がっている。だから歩き方や走り方がおかしく、いつもみんなからバカにれた。すでに書いたような運動音痴に加えて、この足も僕をスポーツ嫌いにする要因だった。

 

生まれつきの奇形である「内翻足」のことを、両親が熟知していたことは間違いない。なぜなら、僕の父方の祖母も同じ足だったからだ。ところが、なぜか両親は教師に「うちの子の足がおかしいのは生まれつきだから」と説明してくれなかった。理由はいまでも謎なのだが、両親は深刻な問題が子どもに起こると、すぐに現実から目を逸らそうとする傾向がある。息子が肉体的な欠陥を抱えていることなど、恐ろしくて直視できなかったのかもしれない。

 

幼いころ、僕は「病院でこの足を治せないのか」と親に相談したことがある。昭和40年代の医療事情もあったのかもしれないが、とにかく「普通に生活することはできるのだから必要ない」と一蹴された。こうして重大な肉体的欠陥の事実を封印された僕は、この足であらゆるスポーツをやらされた。運動会のリレーでみんなの足を引っ張る僕に対して、教師とクラスメートは一丸で「ちゃんと走れ」と罵倒する。なかには、ご親切に「こう走るんだよ」とお手本をみせてくる輩も出てくる始末だ。とにかく僕の走り方がおかしいのは「きちんと走ろうとする努力をしない」からであり、そういう僕を「正す」と称して、あらゆるイジメが正当化された。「内翻足」のことを教師に打ち明けたこともあったが、まったく相手にされなかった。

 

屈辱の毎日を過ごすうちに、僕はいろいろな人から「目つきが気持ち悪い」と言われるようになった。いまから思えば、すでに精神を病んでいたのだろう。そして、このマイナスオーラに満ちた目つきこそが、女子から嫌われる致命傷になったのだと思う。不潔でだらしのないこと、スポーツが出来ないこと、喋り方が不気味なことに加えて、まるで犯罪者のように荒んだ僕の気配を、早熟な彼女らは本能で感じ取っていたに違いない。

 

あるときは僕のことを警戒して避け、あるときは露骨に侮辱してくる女子らに対して、よせばいいのに、僕は容姿をからかったり、卑猥な言葉を連発しながら追いかけたりと、精神的な暴力を行使して反撃した。これが決定打となり、僕の周囲に寄りつく女子は皆無となる。クラスの女子は、席替えで僕の隣にくることを恐れた。フォークダンスで手をつなぐのも嫌がった。すべては自業自得なのかもしれないが、思春期を迎えた少年にとって、これはきつい。

 

いつしか僕は、自分が女性に興味をもつことすら「許されない」と考えるようになった。同年代の少年たちはアイドルに目覚め、好きな女の子のポスターを部屋に貼ったりしていたが、自分は頑なに「誰かのファン」であることを避けた。たまにテレビを観て「かわいいな」と思うタレントがいても、それを周囲に察知されることがたまらなく嫌だった。人間として、男性として最悪の劣勢因子にまみれた僕にとって、そんな感情を抱くこと自体が許されないことに思えた。

 

六年生になっても女子に興味を示さない僕を懸念して、母親がまたしても余計な介入を画策する。こともあろうに、クラスで一番かわいくて勉強もできる女の子を、僕の家へ招待しようと提案したのだ。

 

彼女も僕を蛇蝎のごとく嫌っている。母も女であれば、自分の息子が異性を惹きつけるタイプかどうかくらいは判断できるはずなのに、これ以上残酷なおせっかいがあるだろうか。とうとう僕は心が折れた。長時間怒鳴りあった挙句、何とか母の無謀な発案は頓挫させることができたが、心の傷は癒えなかった。この頃から、僕と両親との関係は転落の一途を辿り、衝突が絶え間なく繰り返されるようになってゆく。

 

続く

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ADHDとして生きるということ②・両親との関係

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両親のことを書く前に、小学生の頃の成績にも触れておく。

 

ADHDの大きな特性として、好きなことには尋常ならざる集中力を発揮するが、嫌いなことには見向きもしないというのがある。こと勉強に関しては、これは僕にも当てははまることだった。

 

といっても、成績が本当に「ずば抜けてた」といえるのは、理科の一科目のみ。これはやはり父親が医者だった影響が大きいと思う。子ども向けに書かれた「人体のしくみ」みたいな図鑑を読むのは大好きだったし、生き物の生態にも興味を持った。昆虫の飼育もよくやったが、死ぬと標本にしたり、ときには解剖して体内の構造を調べたりもした。(当時は、駄菓子屋で「昆虫採集セット」という怪しげな学習教材が売られており、防腐剤やピンセットなども揃っていた)

 

理科のように毎回「5」という訳にはいかなかったが、算数も平均以上の点数は取れていた。反面、苦手だったのは暗記物だ。だから社会科の点数が特にひどい。おまけに授業がつまらなくて集中できない。ただし、第二次世界大戦の話だけは別で、授業がこの時代まで進んでくると、突然テストの点数が跳ね上がった。当時の僕は、現在でいうところの軍事オタクの典型だったのだ。だから「日本が戦争に負けたのはいつか」のような初歩的な質問に、クラスの誰もが答えられないのが信じられない。調子に乗ったあげくに、「もしも憲法九条さえなければ、僕はこの知識を活かして軍隊に入りたい。ソ連が攻めてきたら戦うんだ」などと、運動音痴も忘れて妄想したものだ。

 

国語の成績も悪かったが、こちらは暗記とは別のマイナス要因があった。国語のテストの定番として、文章を読んでから「このときの主人公の気持ちはどうだったのか、次のうちから選びなさい」と問われるものがある。選択肢は五つくらいあるのだが、明らかな不正解を消し込んでゆくと、最後に正解の候補がふたつほど残る。そこで迷いに迷って「こっちだ」と解答を書くのだが、正解は必ずと言っていいほど「僕が選ばなかったほう」なのだった。これには困った。暗記物ならひたすら暗記に努めれば何とかなるのだろうが、「主人公の気持ちが分かるようになるための勉強」なんて、どうすればいいか見当もつかなかったのだ。こうして僕は、国語の授業はもとより、児童文学を読むこと自体が嫌いになってゆく。

 

「でも、ちょっとの苦手科目があるなんて当たり前だよ。多くの小学生がつまずく算数なんかができたんだから、さほど気に病むことでもないんじゃないの……」と、ここまで読んできた人は思うかもししれない。

 

ところがこれにはとんだカラクリがあった。

 

実は僕の母親は元教師だった。さらに母の両親、つまり僕の祖父母も元教育者の大物で、引退後も自宅で学習塾をやっていた。この塾へ週何日かは通わされたし、塾のない日は母親がつきっきりで勉強をみていた。他の同級生らは自力で宿題や予習・復習をこなしていたのに対して、僕は家に帰っても自分専用の教師が面倒をみてくれていたという訳だ。これで他の子と成績を競い合うのだから、完全な反則ではないか。

 

「うちの 子はよそとは違う」というセリフを、父や母、祖父母らは頻繁に口にした。たとえば夏休みの宿題などは、「普通の子」が一か月かかって終わらせるところを半月でやるのが「うちの子」なのだという。残りの半月は、大学の付属中学への受験対策にあてなさいと言われたが、実行できずに大いに両親を落胆させた。

 

夕食が終われば勉強を強いられるため、他の子どもが観ているテレビのバラエティー番組などまったく知らない。アニメや特撮番組を観るのも嫌がられ、観ている脇から「小学〇〇年生にもなって、こんな幼稚なのが好きなのか」とネチネチ言ってくるから、楽しくも何ともない。ただし、同じアニメでも「カルピス劇場」は教育的だがら大いに結構……といった具合に、いちいち「うちの子」にふさわしい番組を選別された。おかげで、クラスの友だちがテレビ番組の話で盛り上がっていても、何を言っているのか分からない。流行歌にも極端に疎くて、修学旅行のバスのなかで、僕だけが歌を歌えないこともよくあった。

 

こんないびつな家庭環境が、子どもの生育に良い影響を与えるはずがない。いつの間にか僕は「親が見ていないと勉強できない子ども」になっていた。机に座っていれば、母親がその日の課題を段取りよく与えてくれるために、自分で参考書を活用したり、スケジュールをたてたり、効率的な学習法を組み立てたりといった能力がまったく育っていなかった。だが、当時は母親も僕もそのことに気づかず、成績はすべて自分の実力と勘違いして、通信簿に一喜一憂していた。そのツケをたっぷりと払わされるのは、やがて僕が高校へと進み、中学教師しか経験していない母が勉強を教えられなくなって以降のことである。

 

それでも主要科目はどうにかなった。体育と並んで評価を下げていたのは、むしろ音楽や図工、家庭科などの周辺科目だ。なにしろADHDは物忘れが激しい。だから「明日の家庭科では裁縫箱を使うから、必ず持ってくるように」みたいな連絡をことごとく忘れてしまう。もし算数で定規を忘れたとしても、下敷きの端を代用すればどうにか切り抜けられるのだが(実際、そのようなことはよくあった)、家庭科や図工は道具と材料がなければお話にならない。そのために、特に図工の教師は僕を目の敵にした。

 

担任が絵や工作を苦手としていたのか、小学5~6年の図工はこの教師が受け持っていた。(さらに最悪なことに、こいつは体育の授業の一部も兼任していた)こいういう科目の評価は採点者の主観に左右されるから、通信簿には毎回「図工2」がつけられることになる。低評価の原因は道具の忘れ物だけではない。僕は工作で何かを組み立てるのがやたらと遅くて、決められた日数までに完成させることがどうしてもできなかったのだ。こうして図工教師に嫌われた僕は、授業中だけでなく、廊下で目が合っただけでも「何をぼさっとしてるんだ」などと嫌味を言われるようになってゆく。現代であれば、こんな奴は間違いなくマスコミの餌食となるが、昭和40年代の学校の権威は絶大だった。

 

さて、前回書いたような問題行動に加えて、通信簿に「2」をいくつも取っくてる僕を両親は恥じた。教師の前でことごとく醜態をさらすのが耐えられなかったのだろう。だから、とにかくうわべだけでも「優秀な息子」をとりつくろうとする。

 

例えば夏休みの宿題の工作がそうだった。手伝いと称して、両親が作品のほとんどを作り上げてしまうのだ。結果、誰がどうみても子どもが作ったとは思えないような代物が出来上がってしまう。僕が極度に不器用であることはクラス中に知れ渡っているのだから、こんなものを提出しても恥をかくだけなのが分からないのか。(20年前に出された名著「引きこもりカレンダー」によれば、作者の勝山実氏も少年時代に同じ目に遭っていたことが書かれている)

 

作文でも同じような「手直し」をされた。当時の僕は、文部省(当時)の推奨する児童書の類にどうしても共感できず、読書感想文で「この作者の主張は間違ってる」とか「こうすればもっと面白くなる」などと平気で書いていた。別の作文では「国語の教科書なんか読むより少年ジャンプの漫画の方がためになる」とまで言い切ったが、このときはさすがに教師も呆れ、母親を職員室へ呼びつけている。こうして僕の作文は両親の検閲を受けることになった。文体も内容も突然変異を遂げた文章に、教師も思わず吹き出したことだろう。

 

両親、特に母親は僕のスポーツ嫌いも認めなかった。家には欲しくもないグローブやバットが揃えられ、近所の子どもがやってる草野球に参加しろという。むろん彼らにとっては迷惑以外の何物でもない。使ってもいない硬いグローブをはめて守備についても、お互い嫌な思いをするだけだった。こんな強硬策を行使したところで、生まれつきの運動音痴が改善されるはずもないのだが、それでも母親は諦めない。さらなる荒療治として、僕をボーイスカウトへ入隊させた。これがとどめを刺した。集団行動の取れない僕は、学校とは比較にならないほど嫌われ、手ひどいいじめを受けることになる。これにはさすがに母親も懲りたらしい。後日、僕に「あれは失敗だった」と打ち明けてくれた。

 

 

(以下、続く)

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ADHDとして生きるということ①・学童期

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まず、ここで自分のことを詳しく書いておこう。

 

僕は現在55歳、独身のひとり暮らし。30年務めた会社を訳あって辞め、いまは福祉職員として働いている。夜勤を伴う仕事のおかげで体調は悪い。特に突発的な目眩は厄介で、ときには何時間も動けなくなったりする。

 

6年前、自分と相性の良い心療内科でWAISⅢという知能テストを受け、「ADHDの可能性あり。また発達面での不器用さもみられる」との判定が下された。高額な検査費を払ってこのようなテストを受けたのは、むろん身に覚えがあったためだ。周囲の怒りをかう物忘れ、苦手な片付け、社会的信用を失うレベルのあり得ないミス……。

 

人前でこういう悩みを打ち明けると、たいていは「間違いは誰にでもある」のひと言で片付けられてしまう。僕が一番嫌いな言葉だ。ADHDのやらかすミスといったら、常人の想像できる範囲をはるかに逸脱しており、だからこそ「障害」以外の何物でもない。それを「個性だ」などと言い換えている限り、僕らの苦難が本当に理解されることはないと思っている。

 

前回も書いたが、僕の問題行動は少年時代から始まっている。

 

当時はまだ太平洋戦争の記憶が生々しかった時代で、小学校には戦前派や戦中派の教師がたくさんいた。深刻な飢えを経験している彼らは、生徒が食べ物を粗末にすることを許せない。食べ残したコッペパンを捨てるなど「もってのほか」で、必ず家へ持ち帰らされた。ところが僕はそのパンを机の中へ入れっぱなしにして忘れてしまう。パンはすぐにカビだらけとなり、授業参観のたびに母親が惨めな思いで掃除してゆくのが常だった。

 

そのほかにも、いろいろなものを学校へ置きっぱなしにした。教科書を持ち帰るのも忘れるから、その日の宿題をすることもできない。怒った親は学校まで取りに行かせたが、職員室の先生に校舎の鍵を開けてもらう勇気がなく、僕はいつまでも放課後の校庭をうろうろしていた。

 

問題はまだあった。いまでもそうだが、子どもの頃の僕は極端に運動神経が悪かった。最初につまずいたのはドッヂボールで、四方から飛んでくるボールをキャッチすることができない。こちらに飛んでくることが分かっていても、その軌道を読んで体を動かすという一連の動作がとれない。その他の集団競技でもクラスの足を引っ張るため、どんどん友人は減ってゆく。

 

学年が進み、授業に野球が加わるようになるとさらに困った。ドッヂボールよりもはるかに小さな球は、もはやキャッチするなど論外に思えた。おまけにそれは石のように硬い。取り損ねて顔に当たれば大怪我だ。少年野球のメンバーは、本当にこんなものを投げ合っていたというのか。もうひとつショックだったのは、僕を除いて、クラスの全員があの複雑な野球のルールを把握していたことだ。先生は何も説明しないのに、みんなはさっさとグローブを手に取り、ポジションについてゆく。守備と打撃の区別もつかずにオロオロしているのは僕だけだった。

 

(思うに、当時の体育教師もさぞ困ったことだろうと思う。日本人にとっては常識かもしれないが、野球をやらないフランスやドイツの人に対して、あなたはあのルールを分かり易く説明することができますか)

 

ちなみに僕は体が虚弱な訳ではなく、マラソンやウォーキングなら人並みに楽しむことができる。ただし反射神経には明らかに問題があるし、フォームの良さを求められるスポーツはほとんどできない。きちんと診断した訳ではないが、おそらくはADHDとDCD=発達性協調運動障害を併発しているのではないかと思う。

 

だが昭和40年代の地方の学校にそんな概念はない。かわりに、教師も生徒も「こいつが運動神経ゼロなのは親の育て方のせいだ」という結論で一致した。

 

僕の父親は医者だった。多くの同級生が平屋で暮らしているなかで、僕の家は二階家だったし、おもちゃや児童書、教育グッズなども買いそろえてもらえた。だから過保護に育てられているに違いないという理屈だ。あまりにもステレオタイプな思考回路だが、僕自身が彼らの主張を真に受けた。こんな家にいたら本当に駄目な人間になってしまうと信じ、同じように裕福な家庭の子どもやひとりっ子を軽蔑したりした。

 

だが事実はどうだっただろうか。

 

それなりの社会的地位を築いた人物は、子どもに対する期待も大きい。かたや僕はどうだったか。カビたパンを机に放置し、宿題もせず、クラスメートからも教師からも馬鹿にされる。こんな息子を、当然ながら両親は許さなかった。甘やかすどころか、徹底した過干渉で僕のすべてに介入し、ことごとく自立を奪ってゆくことになる。

(次回の記事へ続く)

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イントロダクション

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いまから87年前のこと。

東京・乃木坂の裕福な家庭に、ひとりの女の子が生まれた。

 

彼女は幼少の頃から変わっていた。入学先の小学校では教室でおとなしくしていることができず、毎日のように迷惑行為を繰り返した。机のふたをやかましく開閉したり、窓辺に通りかかったちんどん屋を呼び寄せたりと、さまざまな奇行に及んでは授業をぶち壊す。激怒した教師たちは彼女を「問題児」とみなし、ついに退学処分を言い渡した。

 

小学校にも通えないようなクズに対して、世間は冷たい。普通に考えれば、彼女の人生はこの時点で「落伍者」として決定づけられていたことだろう。どこへ行っても軽蔑され、社会へ出てもまともな職には就けず、友人もできず、恋人も作れず、無駄な年月だけが過ぎてゆく……そんな最低の一生が彼女を待ち受けていたに違いない。

 

だが、ここで転機が訪れる。

 

尋常小学校を追い出された彼女のために、母親は必死で転校先を探した。そして「トモエ学園」という理想の受け入れ先を見つけることができた。トモエ学園は一風変わった学校だった。生徒の自主性を重んじ、授業はめいめいが好きな科目を選ぶことができる。本物の電車を転用した教室も彼女のお気に入りだった。校長先生は彼女に「君はいい子なんだよ」と言い続けた。その言葉は彼女の心の支えとなり、その後の人生で眠っていた能力を開花させてゆく。

 

小学校退学の過去などウソのように、順調に学力を伸ばしていった彼女は、やがて名門女学校を経て音楽大学へ入学。卒業後はNHKに入社し、テレビやラジオのレギュラー番組を何本も抱える人気者となった。その後も躍進はとどまることを知らず、紅白歌合戦では何度も司会を担当。民法トーク番組も当たって放送回数世界最多を記録し、ギネスブックにも認定された。また、トモエ学園での体験を綴った自伝的小説として知られる「窓際のトットちゃん」は累計800万部が発行され、戦後最大のベストセラーにまで昇りつめた。いまや、全国で彼女の顔を知らない者はいない。

 

もしもトモエ学園がなかったら、彼女はいま頃どうなっていただろう。華やかな仕事など望むべくもなく、職を転々としたあげくに路上で悶死するか、それとも犯罪者にでも成り果てていたか……考えただけでもぞっとする。

 

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そして、彼女の生誕から32年後のこと。

北関東某市の凡庸な家庭に、ひとりの男の子が生まれた。

 

彼は幼少の頃から変わっていた。入学先の小学校では整理整頓がまったく出来ず、机のなかでは食べ残しの給食のパンが腐っていた。宿題や提出物を忘れたり、教科書を失くしてしまうのも日常茶飯事で、一度などは家庭訪問の通知を親に渡すのを忘れてしまい、散らかり放題の我が家にとつぜん教師が訪れたこともあった。あきれ果てた教師は彼を「問題児」とみなし、露骨に軽蔑する態度をとった。

 

学校生活も送れないようなクズに対して、世間は冷たい。普通に考えれば、彼の人生はこの時点で「落伍者」として決定されてしまったことだろう。どこへ行っても軽蔑され、社会へ出てもミスやトラブルを繰り返し、出世からは程遠き、恋人も作れず、年月だけが無駄に過ぎてゆく……そんな最低の一生が彼を待ち受けていたに違いない。

 

そして、現実はまさにその通りとなった。

 

彼はイジメのターゲットとなった。一年生のテストの際にはいじめっ子らに取り囲まれ、答案用紙に出鱈目な回答を書き込まれた。やりたい放題の悪ガキどもに、彼はまともな反撃もできず、その答案を無理やり提出させられた。こうしてテストの点は一桁となる。彼は事の経緯を母親に伝えた。だが、彼女は聞く耳を持たない。ただの言い訳と勘違いしたのか、情けない息子に「こんな点をとってくるなんてウチの子じゃない」と拳の連打を浴びせてくる。この体験は彼の心に大きな傷を残し、その後の人生でさまざまな可能性を封じ込めてゆく。

 

精神的な屈折が原因で、中学、高校へと進むにつれて成績を落としていった彼は、まぐれも手伝い、辛うじて中流大学の入試に合格。卒業後は会社員になるものの、入社当初からあり得ないミスを連発し、人事の評価を著しく下げてゆく。その後も転落はとどまるところを知らず、何年会社に勤めても平社員のまま肩書もつかない。メンタルヘルスはますます悪化して心療内科の世話になり、服薬を二十年以上も続けているありさまだ。

 

もしも彼がトモエ学園に出会っていたら、いま頃はどうなっていただろう。会社なんかさっさと辞めてテレビの人気者となり、ワイドショーで発達障害の惨状を訴えて……ああ、くだらない。笑うに笑えない妄想だ。現実の彼は失業の恐怖に怯え続けている。いつかは住む部屋もなくして路上に果てるか、それとも犯罪者にまで落ちぶれるか……考えれば考えるほど、すべては現実味を帯びてくる。

 

このブログがテーマとする「発達障害者」とは、問題を抱えながらもよき理解者に出会い、才能を開花させていった一部の成功者たちではない。そんな幸運とは無縁の逆境にあがいている圧倒的多数の当事者たちに捧げるものである。

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