sonicstepsのブログ

トットちゃんが妬ましい。エジソンを目指すとかあり得ない。 一部の成功者らの美談はさておき、多くの当事者にとって、発達障害はやっぱりつらい。 おまけに憎い。何よりそいつはかけがえのない人生を奪った元凶なのだ。 だけど……それでも僕らは生きてゆく、終わることのない絶望の毎日を。

僕は50過をぎても発達障害をやってる冴えない中年男です。エジソンやジョブスがどうかは知りませんが、僕自身にはさしたる個性も才能もなく、人生の敗残者として悶々とした日々を送っています。このブログで取り上げる発達障害者とは、一部メディアが持ち上げるような「障害を素晴らしい個性へと開花させた成功者」のことではありません。僕と同じく底辺を這いずる圧倒的多数の当事者たちに捧げるものです。

ADHDとして生きるということ⑰ 最終回・再出発に向けて

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心療内科のアドバイスに従い、僕は自宅療養でうつ病と向き合うことを決心した。

 

休職初日は七時前に目が醒めた。

 

昨日までなら、とっくに職場で仕事の準備にかかっている時刻だった。本来の始業時刻の2時間だ。暖房もかかっていない社内はひどく寒い。それでも無償奉仕の早朝出勤者たちはジャンバーを羽織り、白い息を吐きながらデスクに向かっている。さしずめ、いまごろはみんなコンビニのサンドイッチでも頬張りながら、起動中のパソコン画面を眺めていることだろう。そんな様子が、ぼんやりと天井を眺めているうちに浮かんでくる。睡眠薬の効き過ぎなのか、それとも抗うつ剤の副作用なのか、眠気がひどくてトイレにも立てない。僕はもう一度布団を被った。次に目が醒めたのは正午過ぎだった。

 

次の日も、その翌日も、昼夜を問わず眠りこける状態が続いた。起きているあいだはレンタル屋のDVDを観ていることが多かった。本もたくさん買ってきた。だが、内容がまるで頭に入らない。掃除や洗濯もせず、趣味にも手を出さず、万年床で横になるうちに一日が終わった。外出は必要最低限に抑えていた。どこかで会社の外回りの連中と出くわすのが嫌だったからだ。どうしても都心へ出なければならないようなときは、帽子とマスクで顔を隠した。酒も今度こそ断ち切った。

 

こういう毎日を繰り返していると、時間の経つのがとにかく早い。正月休みやゴールデンウィークが「あっという間」に終わってしまうのと似ていて、通常の一週間が二、三日くらいのペースで過ぎてゆく。よく、引きこもりの人が時間の感覚を失くし、本人の自覚がないうちに中高年となってしまうような事例を耳にするが、当時の僕も同じ状況に陥っていたのかもしれない。

 

唯一体を動かさなければならなかったのが、二週間に一度の通院日だった。

 

診療の受付開始は朝9時だが、その一時間前には、シャッターの閉まった入口前に長蛇の列ができている。このクリニックでは予約を一切受け付けていないから、とにかく早く来て並ばないと、何時間待たされるか分かったものではないのだ。半日以上を潰されることもザラにあった。

 

それだけ待つのだから。さぞ丁寧な問診が行われるのかと思いきや、聞かれるのは薬の効き具合のみ。効かなければ薬を足し、効き過ぎれば減らし、副作用があればそれを抑える薬を追加することの繰り返しだ。患者の悩みを傾聴するカウンセリングらしき場面など一切なく、問診はいつも数分で終了した。処方箋を貰うために時間を浪費しているようなものだった。

 

薬物治療に物足りなさを感じた僕は、うつ病患者たちが主催する自助グループに関心を持つようになった。主催者の男性の病状はかなり重いらしく、休職日数は二年以上にも及ぶという。そのような人たちの闘病体験を聞くことで、何か得るものがあるのではないか。迷った末、思い切ってメールで参加を申し込んだ。

 

ところが期待は空振りに終わった。

 

自助グループで語られる話題は、ほとんどが服用中の薬の情報だった。治験中の薬がいよいよ認可されたとか、さっそく試してみたら効いたとか、効かないとか、副作用でどんなエピソードが出たとか……すべてが知らない話ばかりで、僕は会話の輪に入ることができない。話題もひどく退屈に思えたが、僕を除く全員が楽しそうだ。知識も驚くほど豊富で、長ったらしい薬の名前や医学用語を次々と諳んじてみせる。他には、休職をめぐる福祉制度や保険についての知識交換も活発だった。挙句には「精神障害者保健福祉手帳の診断書を簡単に書いてくれる医者」の情報までやり取りされている。僕は二度とこの場に足を運ぶことはなかった。

 

自助グループを体験したことによって、平成二十年前後に一般的だった精神医療のスタンスが、患者の側にもいかに強く影響を与えているかが理解できた。当時は「うつは心のかぜ」というフレーズが流布していた。つまり、風邪のように当たり前な病気であり、薬を適切に飲むことによって必ず根治できるのだという。端的にいえば、希死願望などの症状は脳の異常な状態(セロトニンの不足など)によって起こるものであり、それを薬の効力によって正常化することが治療の基本となる。本来、僕が期待していたようなカウンセリング療法は保険対象外であり、別途にべらぼうな金額を請求された。

 

これには大いに疑問を持った。

 

たとえば、日本で大規模な雇用危機が発生し、失業者の自殺が急増したとする。ここで政府が自殺にストップをかけたいなら、真っ先に着手すべきなのは雇用対策であり、失業者を精神病院へ入院させ、薬漬けにして希死願望を圧殺することではないだろう。ところが、当時の医療現場では、それと同じようなことが行われていた気がしてならないのだ。

 

むろん薬物療法を全否定するつもりはない。僕自身、眠剤によって睡眠障害をずいぶん改善すすることができた。抗うつ剤の効果もあったのか、日々の生活に対する意欲は感じられるようになった。もっとも、こちらは単に嫌な仕事から解放されただけのことである可能性もあるが、回復を少しずつ実感できたことに変わりはない。

 

生活にも少しずつ変化があった。医師の指導には反するが、ときには思い切って外出することも多くなった。図書館まで自転車を飛ばし、うつ病発達障害、カウンセリングについて何時間も勉強する。最新情報を求めて都心の大型書店へ行くこともあったが、一度だけ、道端で会社の役員とばったり出くわしてしまった。自宅療養中の身としては、まるで仮病がバレた小学生のような心境だったが、役員は「あんまり無理するなよ」と優しく言って立ち去って行った。

 

ここまで勉強にのめり込んでいったのは、ひとえに転職の可能性に備えてのことだった。当面の目標は現職への復職だったが、問題はその後の身の振り方だった。もう基幹職へ返り咲くのは無理だろう。かわりにどんな閑職に飛ばされることか。再配属先でも、こちらは間違いなくお荷物だ。あからさまに何かを言われはしないだろうが、微妙な空気は避けられないだろう。そんな毎日が、定年まで続くと思うと気が重かった。

 

僕は過去にメンタルを病んだ社員たちの顔を思い浮かべた。復帰後の風当たりに耐えられず、辞めていった者も少なくない。状況次第では、僕も腹を括らなければならない可能性がある。その覚悟と準備だけはしておこうと思った。

 

それでは転職先をどうしよう。たとえば、いままで夢中になってきた心理療法を仕事にはできないものか。当時は国家資格である公認心理士はまだ登場しておらず、臨床心理士が心理専門職の登竜門とされていた。この資格があれば、スクールカウンセラーなど多様な場で活躍する道が開けるが、試験を受ける前に認定協会指定の大学院を出なければならない。通信制の大学院でも良いらしいが、経費は二百万円くらいかかるようだ。

 

試験の難易度と高額な費用に委縮した僕は、他の民間資格の資料もいくつか取り寄せてみた。こちらの受講料は三十万円くらいが相場で、臨床心理士に比べれば格安といえたが、問題はその資格の社会的価値だった。パンフレットを見る限りでは、どれも「本気でカウンセラーを目指す人大歓迎」のようなキャッチコピーが謳われているが、実際にカウンセラーになった人の就職先や、カウンセリングルームの開設事例などは載っていない。おそらくは、レッスン料は高いがデビューできないタレント養成所のようなものなのだろう。

 

いろいろ調べてゆくうちに、心理専門職で食べてゆくことの難しさも分かってきた。他の転職先も模索することにしたが、いずれにしろ、何かしらのネームバリューがある資格を取り、心理療法の知識や文章力など、自分の強味を存分に発揮できる業種を目指すことを心に決めた。そのためには、まずうつを克服して復職することが先決だと思った。休職しながらスクーリングに通うことも可能ではあったが、僕のために穴埋めをさせられている職場の仲間たちのことを思うと、それだけは避けたかったのだ。同時に、試験勉強や転職へのストレスで、病状が悪化するのも怖かった。僕は治療に専念すべく、引き続き不要の外出を避け、酒を断ち、養生に努めた。

 

僕は休職を半年間続けた。その甲斐あってか、ある時期を境に、物事に対する意欲のようなものがはっきりと実感され始めた。あれほど嫌だった会社にさえ、「早く戻りたい」と切望するようになってきたのだ。これならば休職を終わらせても良いのではないかと思い、ある通院日に、僕は主治医にその意向を告げた。この医者は往々にして慎重なところがあり、今回も「復職なんて時期早々」と一蹴されるかと思ったが、あっさりと承諾されて拍子抜けする。「そのような意欲があるのは、快方に向かっている証拠」という説明だった。季節はもう夏になっていた。

 

さて、昨年8月に連載「ADHDとして生きるということ」を始めてから半年以上が経った。人生に終わりがないように、物語もまだまだ続いてゆくのだが、このあたりでいったん筆を置こうと思う。

 

ご想像のとおり、僕はその後も波乱の出来事に巻き込まれてゆく。だが、直近の記憶というのはあまりに生々しく、沸き起こってくる感情が客観視の邪魔をしてしまう。また、現時点でも密な付き合いのある人物を多数登場させざるを得ないのも気が重い。そのような理由から、以下はエピローグとして、その後の出来事を簡単に振り返る程度で締めとすることをお許しいただきたい。

 

うつを乗り越え、復職に成功した僕だったが、実際に転職を果たすには、なお十年以上の年月が必要だった。理由はいくつかあったが、やはり長い人生での成功体験があまりに乏しく、新たな仕事に挑んでゆく自信がなかったことが大きい。一方で、その反動なのか「どうせ転職するなら大きな仕事をして周囲を見返してやる」との思いも強かった。一時は本気で小説の文芸賞を目指したりもしたが、絶対の自信があった300枚の大作が、一次選考であっさり落されてしまう。このショックは大きく、以後三年近くも長編小説が書けなくなってしまった。

 

「あれもしたい、これもしたい」ともたもたしているうちに、年月ばかりが過ぎてゆく。このままではきりがないと焦っていた頃、背中を押すような出来事がいくつか重なり、僕は三十年務めた会社を辞めた。転職先は福祉施設だった。当初志していたメンタルケアやカウンセリングのような職種とは異なるが、とりあえずは食べてゆけるだけの収入が得られる。そこで生活を確保した上で、やりたいことはボランティアで関わってゆく選択肢もあると思った。その場合でも、やはり福祉職としてのステータスは上げておきたい。仕事をしながら通信教育を二年続けた後、僕は社会福祉士の国家試験に挑戦した。休日のほとんどを勉強にあてた甲斐があり、一発合格を果たすことができた。

 

この合格によって、僕の「暗記学習は不得手」というコンプレックスを少しは払拭できたと思う。成功の裏には、ADHDとしての自分の特性をよく理解したうえで、そのまままでは退屈極まりない反復学習を「楽しい行為」へと変えてゆくための創意工夫があった。その詳細は、また別のシリーズとして記事にまとめ、このブログに公開してゆきたい。同じ悩みを抱える人たちにとって、少しでもお役に立てれば幸いだ。

 

コンプレックスといえばもうひとつ。僕のなかには「もしも自分が中学、高校時代にまともな学生活を送れていたら、もう少し学力を発揮できていたのではないか」という悔いがあった。過去の記事で述べてきたとおり、僕の少年時代は経済的には恵まれていたものの、日々イジメや虐待にさらされ、希死願望も伴うほど追い詰められてきた。あの状態では学業どころではなかった、といまでも思う。おかげで後々まで学歴コンプレックスに悩まされることになったが、それを払拭するためには、その後の人生で成功体験を重ねてゆくしかない。今回の国家試験への挑戦は、その一環で一念発起したことでもあった。

 

連載を続け、人生を振り返りながら実感したのは、「片付けられない」とか「ミスをする」といったADHDの特性そのものは、必ずしも生きづらさに直結する要因になるとは限らないということだ。深刻なのは、もっぱらうつや希死願望などの二次障害の方だったように思う。そして、それは家庭や学校、職場などの周辺環境ばかりではなく、時代、社会、地域性などのマクロな背景にも大きく左右される。

 

僕の場合は、まず昭和四十年代生まれという時代のハンディがあった。当時は発達障害という概念など皆無であり、その特性はことごとく「だらしがない」のひと言で片付けられた。家が裕福だったために、周囲から「どうせ甘やかされて育てられているんだろう」と決めつけられていたことも不運だった。まだ日本が貧しかった時代ゆえに、世間のこの手のやっかみは強く、アニメや漫画に出てくる悪役は金持ちの家の子ばかりだった。イジメや虐待の加害者たちは、あらゆる暴力は僕を叩き直す教育になると信じていたのだろう。

 

では、僕は本当に家庭で甘やかされていたのか。たしかに両親は過保護ではあった。そして過干渉を繰り返した。だが、ADHDとしての特性を背負った僕は、両親の期待する「うちの子」とは程遠い。その苛立ちが虐待を誘発した。「見ていられない」という焦りが過干渉をエスカレートさせた。親の溺愛と虐待とは、表裏一体であることがままあるのだ。

 

このような要因がひとつもなければ、僕の人生はどうなっていただろう。だらしがなくても、ミスをしがちでも、他人にはない能力を発揮できるような職を探し当てることができただろうか。

 

ちまたでは、若いに頃つらい思いをしたADHDの当事者たちが、海外生活などをきっかけにしてビジネスに目覚め、特性を強みへと転じてゆくようなサクセスストーリーが流布している。五十を過ぎても二次障害から立ち直れない僕からみれば、まるで遠い世界の出来事のようだ。同じ特性を背負っていても、環境次第、運次第で、発達障害の特性をプラス要因としてゆける人々がいる。だが、彼らとは真逆の貧乏くじを引いてしまった僕はどうしたらよいのだろう。

 

先ほども少し書いたが、僕はこれまでに小説を数本書いている。登場する主人公は自分の分身ばかりで、変わり者だったり、社会に順応できなかったり、美大受験を何年も落ち続けたり、会社で怒られてばかりいたりする。だが、そんな架空の物語を創作するよりも、いっそ自分の実話体験をそのまま書いてしまったほうが面白いのではないか。何千枚もの文章を書いた末に、ようやくそのことに気づくことができた。

 

自分史を書くという着想が、半年以上をかけたブログ記事として形になった。去年の夏に、慣れないはてなブログの操作が分からず、悪戦苦闘したことが懐かしい。Twitterによる告知が功を奏したこともあり、シリーズ連載中はたくさんの人たちから励ましとご指導の言葉を頂いた。ブログのアクセス数も順調に増え、本当に多くの読者に読んで頂けたことが何よりも嬉しい。長文の記事を最後まで続けることができたのは、ひとえに皆様のおかげです。この場を借りてお礼を申し上げます。

 

自分史は今回で終了しますが、ブログ記事はこれからも続けてゆきます。今後は発達障害関連の書籍の書評や、他の当事者たちとの交流体験記事(プライバシー厳守)などを掲載してゆけたらと思います。引き続き、sonicstepsのブログをよろしくお願いいたします。

 

ADHDとして生きるということ⑯ 急浮上、そして転落  

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時はさらに過ぎ、僕はいつのまにか中堅社員になっていた。

 

同期の大半は管理職に出世していた。役員クラスを狙って動きだす者も少なくない。いまだ平社員の僕から見れば、すべてが遠い世界の出来事だった。

 

とりわけ辛かったのは名刺交換だった。白髪も増え、下腹も目立ちはじめた中年男から、何の肩書も付いていない名刺を渡された相手はどう思うだろう。考えるだけでも逃げ出したくなってくる。

 

このままではいけない。遅すぎるかもしれないが、まだやれるだけのことはやってみよう。前回でも少し触れたが、そんな風に思えるようになったきっかけは人事異動だった。

 

端的にいえば、この異動のおかげで仕事は楽になった。「そんな仕事しか任せられない」と烙印を押された可能性もあったが、落ち込んだのは最初だけだった。「給料を削られることもなかったし、楽に越したことはない」と居直ることにしたのだ。それに、この部署では「僕は受け入れられている」という実感が得られた。仕事のあとの一杯にも誘ってもらえるし、上司の受けも悪くないようだ。僕は張り切って仕事にあたった。

 

とりわけ僕のパソコンのスキルは重宝された。部のメンバーには年配者が多く、すでに普及していたインターネットもいじったことがない人がほとんどだったのだ。

 

この自己アピールのチャンスを逃す手はない。何しろ楽な部署だったので、午後3時頃には仕事がなくなり、手が空いてしまう。その時間を利用して、僕はエクセルやワードのスキルアップに精を出すことにした。ネットで紹介されているさまざまな関数や機能、テクニックを調べ、日常業務に応用すべく頭をひねる。苦労した甲斐あって、自信作といえるフォーマットがいくつも完成した。特に簡単なマクロを使った受注集計表は好評で、同僚や先輩も「使いやすい」と言ってくれる。他部署からもコピーを頼まれた。

 

僕の株は上がっていった。そして、さらに決定的ともいえる快挙を成し遂げる。全社を挙げた新規事業のアイデアの公募に、僕の書いた提案が採用されたのだ。

 

駄目社員の僕ではあったが、入社以来、常に褒められていたことがふたつだけあった。ひとつは会議の場での発表の仕方。もうひとつは文章力である。学生以来、僕は一貫して文章を書くことに生きがいを見出してきた。会社帰りに文芸サークルへ通ったり、ミニコミ誌を出したこともある。さまざまな場で書いてきたものを合計すれば、原稿用紙で千枚は超えるだろう。誇張ではなく、私生活の大半を費やしてきたと自負している。

 

長年蓄積された文章力のおかげで、僕は幸運を勝ち取ることができたらしい。だが、経験豊富な企業人の方であれば、ここで疑問を感じるかもしれない。会社が開催する「企画アイデア募集」のようなイベントなんて、実は単なる出来レースではないのか……と。たしかに、表向きには「公正な選考をする」とか言いながらも、この手の受賞候補は初めからエリート社員に絞られていることが多い。どんなに優れた内容でも、日頃から評価の低い社員は、それだけで選考から外されてしまうのが現実なのだ。

 

にもかかわらず、僕に限ってなぜこんな奇跡のようなことが起こったのか。

 

理由はその選考方法にあった。慣例と異なり、今回の選考者たちは書き手の氏名や部署名が分からない状態で企画書を渡され、先入観なしで内容を精査することが徹底されたのだという。最初にそれを聞いたときには、社員の誰もが「嘘つけ」と勘繰ったが、どうやら本当に実行されたらしい。僕の受賞が何よりの証拠だった。

 

ほどなくして、この出来事はさらにあり得ないような逆転劇を生み出すことになる。

 

企画が採用され、社内表彰を受けてから一年と経たないうちに、僕は支社全体の営業促進を総合管理するセクションへの異動を告げられた。底辺の仕事に身をやつしていた者が、いきなり他の営業員を監督する立場へと栄転したのだ。

 

もちろん、こんな例外的な異動が、単に企画が表彰されただけの理由で実現した訳ではない。背景には、僕の小まめな顧客対応や生真面目さを評価してくれた一部職制の方々の力添えがあった。仕事をきちんとやっていれば、見る人は見てくれている……そんな綺麗ごとは一切信じなかった僕も、このときばかりは「会社も捨てたものじゃない」と思い直すようになった。

 

一方で、冷ややかな視線を向ける者も多かった。頭から「あいつにあんな仕事が出来る訳がない」と決めつけてかかる連中だ。なかには、面と向かって「嘘だろ」と嘲笑う輩もいた。殴ってやりたいほど頭にきたが、我慢した。会社中にそう思われても仕方がないことは、僕が誰よりもよく自覚している。すべてを挽回すべく、僕は新しい仕事に全力を注ぐことにした。

 

部署では僕の歓迎会を開いてくれた。会場は奥まった場所にある料理屋だった。店のレベルも高かったが、それ以上に驚いたのは出席者だった。前名誉会長のお気に入りで、将来の社長候補と目される人までが顔を出していたのだ。僕は心の底から委縮した。入社以来、ずっと雲の上の人と思っていた人と、まさかこんなに間近に対面するとは思ってもみなかったからだ。だが、酒が入り、ざっくばらんに話をしてみると、想像していたのとはまるで違う人間味のある人物だった。

 

社長候補者と酒席を共にしたことで、僕は「そういうポジションにやって来たんだ」という自覚を新たにした。

 

末端の営業員に過ぎなかった以前の自分は、無理難題ばかり押し付けてくる上層部が恨めしかった。だが、これからは彼らと同じ目線に徹しなければならない。当面、僕は各営業計画の進捗状況をチェックする仕事を任された。ミスなど論外の基幹業務だ。発達障害とかADDとか、そんな甘っちょろい言い訳を口にしている場合ではない。僕は発達障害である自分を「なかったこと」にして激務にあたった。

 

すでに中野区の住居から引っ越していたこともあり、高円寺のカフェにも西荻窪心理療法にも行かなくなっていた。好きな文章を書くのもおっくうだったし、心療内科のカウンセリングからも遠のいていた。残された趣味といえば、ひたすら大酒を飲むことだけだ。それでもかまわない。ADDとしての欠陥なんて、気の持ちようでどうにでもなる。そう信じ込むしか術がない。

 

だが、ADDや心の病はそんなに甘いものではなかった。

 

エクセルの操作には自信があった。だから売上進捗の作成など「どうにでもなる」と高をくくっていたのだが、いざ関わってみると、そこで伴うプレッシャーは想像以上だった。なにしろ、作成するのは社長や会長も目を通すような重要資料だ。まとめる数字は億単位だし、間違いは絶対に許されない。もしも計算式に不備があったり、ゼロの数をひとつ打ち間違えたりしようものなら、会社の経営判断を狂わすような事態にもなりかねないのだ。むろん、大抵はどこかで「おかしい」と気づいた者から指摘が入るが、その場合は会議に出ている営業部長や役員クラスが大恥をかくことになる。ある定年間近の課長などは、それが怖くてエクセルの計算機能が信用できず、算出された数字をソロバンで検算していたという。若い人は爆笑するかもしれないが、僕にはその気持ちがよく分かった。

 

前の部署では毎日定時で帰れたが、そんな生活は一変した。特に全社会議の直前などは地獄だった。出席する役員らのために、議題に合わせて必要な資料を準備するのだが、その議題というのが社長の気まぐれでコロコロ変わる。そのつど僕らはA3用紙で百枚以上にも及ぶ資料をダストシュートに投げ捨て、作り直しを強いられた。やっと決定稿が上がっても安心はできない。上からダメ出しが出たら、さらに内容を訂正しなければならないからだ。会社を出るのは誰よりも遅かった。

 

それでも間に合わないときは、始発に近い電車で出勤して続きを仕上げた。ようやくペーパーがまとまると、役員や部長クラスはそれらを抱え、会議室へと向かってゆく。だが、これで万事終了ではない。会議が始まって一時間も経つと、今度は秘書室から追加資料を求める電話がかかってくる。このように急な資料が必要とされるのは、たいていは会議の過程で想定外の問題が発覚したときだった。社長らが執拗に状況説明を迫っているのだ。だから通常以上に詳細で、かつ不備のないデータが要求されるのは言うまでもない。しかも事態は一刻を争う。こうしているあいだにも、該当エリアのトップは会議室で集中砲火を浴びながら、弁明用の資料を「今か今か」と待ち続けているのだ。

 

こんなことが毎週のように続いた。僕はプレッシャーに潰されそうだった。仕事は分からないことだらけなのに、とても周囲に質問できる雰囲気ではない。そんな余裕のある者がいないのだ。直属上司もその上の者も、僕よりもさらに時間に追われ、もっと苛立ち、事あるごとに叱責されている。まるで部署全体が抑うつ状態に陥っているようだった。

 

これまでの僕なら、ここで癇癪を起して周囲を唖然とさせていたことだろう。だが、いまは曲がりなりにもエリア全体をまとめ上げる立場だ。だから懸命に耐え続けた。我ながら、自分のどこにこれだけの忍耐力があったのかと感心するほどだった。そして周囲の期待に応えるべく全力を尽くした。だが、能力のない者がいくら背伸びをしてもボロが出る。何度もチェックしているにもかかわらず、A3用紙いっぱいの表のどこかに不備が出てしまう。長年底辺の職に甘んじていたために、エリア全体の動向に疎く、説明内容に矛盾が出てしまうこともネックだった。

 

最初のうちは「慣れていないから」と見逃してもらえた。が、仏の顔にも限度があった。僕のレベルのあまりの低さに、一部の部長や次長、課長クラスまでが不信感をあらわにするようになった。そんなときに叱りつけられるのは僕ではなく、もっと上の人間だった。自分のせいでみんなが罵声を浴びせられる光景は、いま振り返ってもいたたまれない思いがぶり返してくる。

 

能力不足を補うために、早朝出社とサービス残業を限界まで続けた。仕事のあとは飲み屋で鬱憤晴らしだ。飲む量もペースもまともではないから、すぐに意識があやしくなってくる。そのままカウンターに突っ伏してしまうこともしばしばだった。こんなことを繰り返していれば、当然店の人からは嫌われる。そして、とうとうある小さな店から出入り禁止を言い渡された。ここの店主とは映画の好みなどで馬が合い、十年近くも懇意にして頂いただけに、ショックは大きかった。

 

帰宅するのは午前零時近かった。着替えずに寝入ってしまうこともしばしばだった。それでも2時間くらいで目が覚めてしまう。あとは眠りにつくことができず、明るくなったら早朝出勤の準備を始める毎日だった。典型的な睡眠障害だ。せめて休日だけでも熟睡しようとするのだが、意識すればするほど目がさえてくる。日中は頭痛や肩こりがひどく、目の痛みにも悩まされた。誇張ではなく身の危険を感じるようになった。

 

出世に直結するポジションというのは、みなこの苦痛に耐えられなければ務まらないということか。

 

僕はトップを目指して邁進するエリートの面々を思い浮かべた。狡猾な悪党ほど出世してゆくのは企業の常だが、素晴らしい人格者もたくさんいた。だが彼らは、ひとつ昇進するたびに、まるで別人のように人相が変わってゆく。この「偉くなると顔がきつくなる」というエピソードは社内のみんなが口にする「常識」であり、決して一部の例外ではなかった。

 

温厚だった人間がパワハラ上司に変貌することも少なくない。逆に極度の無口になってしまい、「あの人大丈夫かな」などと噂されているうちに、本当に入院してしまうようなケースもあった。このままでは僕も同じ目に遭いかねない。悩んだ末に、ふたたび心療内科へ通院することを決めた。

 

転居のため、お世話になった中野区のクリニックへ通うことは難しかった。やむなく代わりの心療内科を探したが、以前と違い、なにしろ今は帰りが遅い。ネットの検索結果を何ページもめくっているうちに、少し遠いが深夜でもやっているところを見つけることができた。

 

その日、クリニックへ着いたのは夜8時過ぎだった。番号札を渡されたが、カウンターを見ると受診待ちの人が20人近くいる。のちに知ることになるが、ここでは2時間、3時間待ちは当たり前だった。中野区のクリニックでは考えられなかったことだ。結局10時近くまで待たされてから診察室へ通された。こんな時間まで働いているせいかも知れないが、医者はずいぶんやつれた印象だった。姿勢が悪く、しゃべり方も弱弱しくて聞き取りづらい。まずい所へ来たとも思ったが、これだけ待たされたあげくに診療代だけ取られて帰るわけにもいかない。僕は事情を詳しく説明した。

 

医者は猫背で僕の話を聞いたあとで、ひと言「うつ病ですね」と診断を下した。ここまではおおかた予想通りだったが、次に発したひと言には驚愕させられた。唐突に「診断書を書くので明日から休んでください」と告げられたのだ。

 

むろん承諾できる話ではなかった。僕が懸命に拒否した結果、当面は薬物治療で様子をみようということになった。処方された薬はたいへんな分量だった。抗うつ剤としてはパキシルを服用することになった。この薬はのちに攻撃性などの副作用が明らかとなり、厚労省からも注意喚起がなされるようになるが、この時点では新世代の薬として期待されていた。

 

眠剤も処方されたおかげで、不眠は少しだけ改善された。だが、肝心の鬱状態のほうは劇的な変化はみられず、副作用に苦しめられてばかりいた。僕は治療に対する不信感を募らせていった。そもそも、あんな唐突な休職勧告をしてくる医者がどこまで信用できるものなのか。こうなると、彼の指導など一切守る気がしなくなる。特に受け入れられなかったのが酒の禁止だ。あの楽しみを取り上げられたら、精神的にますます追い込まれてゆくだけではないか。それでもアルコールが抗うつ剤の効き目を削ぐのは事実のようなので、たまに休肝日を設ける程度の努力はすることにした。

 

これではまともな治療になるはずがない。

 

職場では、僕はますます荒んでいった。癇癪だけはどうにか堪えていたが、相変わらず仕事の覚えは悪く、周囲の不満や不信感も膨らんでゆく。何よりつらかったのは、何の能力もない僕をエリート集団に推薦してくれた人たちが、間違いなく顔を潰されていることだった。この見込み違いのために、いったいどれほどの人たちが迷惑していることか。はっきりと希死願望を自覚するようになったのもこの頃だった。

 

死への誘惑と戦いながら、僕は独自にうつ病について調べ始めた。知れば知るほど、自分に当てはまることばかりだった。いくら薬を飲んでも、メンタルを疲弊させている直接要因を取り除かなければ、病気の根治は難しいことも分かった。僕の場合は間違いなく過剰な激務だった。

 

やはり、あの医者の言うことをきいて休職するのも選択肢なのだろうか。

 

だが、そうなったらこのまま昇格も叶わず、平社員の身から抜け出せないのは必至だった。それならいっそ転職してしまおうか。いまの自分でも始められる職業は何かないか。ふと、高校時代の夏休みに、美大受験の夏期講習のために上京したときのことを思い出した。そもそも自分は表現者になりたくて東京へやって来た。ならばもう一度絵の勉強をやり直してみようか。作品を描き溜めたら、日曜日に井の頭公園フリーマーケットで売るのも楽しそうだ。一枚三千円で売ったとして、食べてゆくには月に何枚描けばいいだろう……。

 

馬鹿な妄想と思いながらも、脱サラといえばそんな道くらいしか浮かばなかった。悩みぬいて医師に相談したところ、うつ病による休職であれば傷病手当が貰えることが分かった。ならばすぐに会社を辞める必要もない。僕の心は次第にその方向へと傾きはじめた。一方で「そんなのはうつ病を口実にしたサボりだ、病気を言い訳にして仕事の辛さから逃げているだけだ」と叱りつけるもうひとりの自分もいた。

 

考え抜いたあげくに、僕は休職を決断した。通常ではあり得ないような逆転のチャンスをかなぐり捨てて、自室に寝ころんで治療に専念する道を選んだのだ。上司からは怒鳴りつけられると思ったが、医師の診断書を手渡すと、拍子抜けするほどあっさりとすべてを認めてくれた。曲がりなりにも大企業である以上、このような申し出に対する管理職の対応は、人事部から周知徹底されているようだった。

 

ただでさえ激務を強いられているこの部署で、僕が抜けたらますます大変なことになるだろう。それでも何も言わないでくれた上司たちに、僕は心から詫びを入れた。その他にも、仕事のできない僕を支え、応援してくれた人たちに対する罪悪感でいっぱいになった。やはり、このまま会社に居続けることはもうできない。きちんとうつ病を克服したら、いったんは復職し、何かの資格でも取ってから辞職しよう。そう心に決めていた。

 

続く (次回は最終回の予定です)

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外部リンク

心理オフィスK

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ADHDとして生きるということ⑮ 心理療法と精神医療

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精神的な失調を自覚するようになって以来、僕は心理学やセルフカウンセリングなどの書籍を読み漁るようになった。

 

その過程で知ったのは、精神医療とは概念の異なる心理療法の存在だった。

 

日々のストレスが限界にきていたにも関わらず、僕は精神科で治療を受けることには抵抗があった。多くの人々が、まだ精神病院に付きまとうマイナスイメージを払拭できないでいる時代だった。とりわけ怖かったのは薬物療法で、当時の薬は、現在では考えられないほど副作用が強かったのだ。それに対して心理療法はクライエントとの対話を非常に重視し、認知の見直し、自己探求、身体感覚や表現活動を通じて問題解決をはかろうとする。その説得力のある発想に、僕は目から鱗が落ちたような気持ちになった。

 

特にアートセラピー音楽療法、演劇療法、グループカウンセリングなどの技法は刺激的でさえあり、読めば読むほど「求めていたものはこれだ」という実感が湧いてくる。これは間違いなく効果がある……そう確信した僕は、さらに多くの本や雑誌を読み、情報収集を始めた。

 

アダルトチルドレンという言葉が使われ始めたのもこの頃だった。とりわけNHKは多くの特集番組を放映していたが、どの内容も僕に当てはまることばかりだった。それから数年後に、いよいよADD(注意欠陥障害)が世に知られるようになってくる。(当初は多動のH= Hyperactivityが入ったADHDという呼称はあまり見なかった記憶があるので、記事ではしばらくADDで統一する)

 

火をつけたのはサリ・ソルデンの「片付けられない女たち」の翻訳本が発売されたことだった。同書はADDの存在を広く知らしめることに貢献したが、一方ではそのインパクトある邦題のために、「ADDは女性特有の障害」という誤解も広めてしまう。まあ、内容をよく読めば「ADDの比率は男性の方が高い」ともしっかり書かれているのだが。(原題は「注意欠陥障害の女たち」といういたって地味なもの)

 

もちろん、こちらの内容にも引きつけられた。ADD、親子関係、トラウマ……知識を得ながら考えてゆくうちに、自分に起こっている問題の輪郭がはっきりと見えてくる。それだけでも心が楽になった。

 

だが、やはり日々の僕の生活が問題だらけであることに変わりはなかった。

 

あいかわらず繰り返されるミス、激しくなるハラスメント、仲間からの孤立……深刻化する数々の問題に打ちのめされていた僕は、職場のみならず、プライベートな場面でも問題を起こすようになった。

 

入社十年を超えた頃になると、僕はひとり酒と並行して、ゲーム中毒の症状を自覚することが増えてゆく。当時は初代プレイステーションの全盛期だったが、僕はセガサターンシミュレーションゲームもやり込んだ。休日ともなれば、食事も忘れてコントローラーを握っているのは当たり前。掃除も洗濯もそっちのけでバーチャル世界に没頭し、そのまま日が暮れることもよくあった。が、まあここまでは特筆するほどではないだろう。ゲームおたくであれば誰でも体験する凡庸な話だ。むろん、世間的にみれば大変な時間の浪費かもしれないが、そのことで他人に迷惑をかける訳でもない。

 

だが、僕の場合は事情が違った。プレイに病的なほど熱中してしまうため、自分の分身が敵に倒されるたびに大声をあげ、激昂してしまうのだ。それでも怒りは収まらず、ひどいときには壁にコントローラーを叩きつけることもあった。

 

(ゲームに限らず、僕は機械類がうまく動かないと興奮する癖がある。特にパソコンや家電に不測の事態が起こるとパニックとなり、サポートセンターが繋がるまで電話し続ける羽目となる)

 

当時住んでいたアパートは木造で、お互いの生活音は筒抜けだった。そんなところで深夜に大声を出されるのだから、隣人はたまったものではない。

 

最初はドアをノックされて穏やかに警告された。それでも僕が自制できないでいると、今度は壁を叩かれ、怒鳴りつけられるようになってくる。大家からも頻繁に警告された。さすがに僕もまずいと思い、何度も自分に言い聞かせつつゲームをスタートするのだが、ひとたび血が上るとコントロールがきかず、また感情を爆発させてしまう。数日後、哀れな隣人はアパートを出て行った。

 

こうなると僕もただでは済まない。次の契約更新時がくると、大家は嫌味たっぷりにアパートを出てゆくことを示唆してきた。こんな強制立ち退きは法的問題も多いと思うが、もともとの非はこちらにあるのだから仕方がない。大家と顔を合わせるたびに気まずくなるのも嫌だったので、僕は素直に応じることにした。

 

引っ越し先には中野区の私鉄沿線を選んだ。理由は高円寺へ自転車で行くことができるからだった。バスや電車を使えば行動範囲はさらに広がり、中野や阿佐ヶ谷、荻窪へも足を延ばすことができた。僕にとって、これらの界隈はお茶の水と並ぶ都内のお気に入りスポットだったのだが、その魅力については後半で詳しく触れてゆこう。

 

だが、引っ越し初日の翌朝から、僕はこのアパートを選んだことを後悔することになった。

 

朝の四時というとんでもない時刻に、僕は天井に響く水の音で目がさめた。二階の住人がシャワーを浴びているらしいのだが、建物の造りがあまりにもお粗末なために、排水時の騒音が尋常ではないのだ。それが断続的なものなら我慢はできる。が、騒音は毎朝ぴったり四時に繰り返され、その都度僕はたたき起こされた。

 

そればかりではない。夜中は夜中で、二階の住民は恋人や友人を部屋に呼んでは雑談にふける。彼は長髪を金色に染め、唇に紅を引いている若者だった。よくギターケースを背負っていたから、ビジュアル系のアマチュアバンドでもやっているのだろう。夜は眠らず、そのまま早朝に仕事へ出かけ、午後あたりに帰宅してから就寝するのが彼の生活パターンだったようだ。ときには夜通しギターの練習をしていることもあった。

 

おかげで僕は睡眠障害に陥った。ときには会社で目眩に耐えられず、事情を話して医務室へ駆け込んだこともある。やむなく本人に直接注意したり、貼り紙をしたり、オーナーの不動産屋から警告を出してもらったりしたが、彼はこちらを舐め切っているのか、改める素振りも見せようとしない。深夜に大勢で宴会を始めたときには嫌がらせに警察を呼んでやったが、なしのつぶてだった。

 

騒音が原因でアパートを追い出された僕が、今度は逆に他の住人の騒音に悩まされる。因果応報とはよく言ったものだ。おおいに反省したが、睡眠障害は日を追って悪化する。まず目の痛みがひどくなった。肩や首にも激痛が走った。極めつけは強烈な目眩で、その日はどうしてもまっすぐ立つことが出来ず、会社を休まざるを得なくなった。身に危険を感じるようになった僕は、とうとう心療内科へいくことを決心した。強力な睡眠剤を処方してもらうことを考えたのだ。

 

理由はともあれ、内面的に深刻な問題を抱えていた僕が、このとき初めて医療機関とつながることができた。自分の騒音でアパートを追われ、他の住人の騒音に苦しめられるという災難の連鎖が、結果的にケガの功名をもたらしたことになる。その後二十年以上も続く心療内科通いの始まりだった。

 

診療所の先生は温厚な人柄で、会ったときから「相性が合う」と直感した。僕はいま直面している問題を夢中で喋った。もっともADDについては専門外らしく、残念ながら「大人のADDなんてあるのかなあ」と言われてしまったが、これが当時の精神科医の標準的な認識だったから致し方ない。その日は睡眠剤だけを処方して欲しいことを告げると、一番弱い薬で様子をみてゆくようアドバイスされた。無理に抗うつ剤を勧められるようなことはなかった。

 

心療内科に加えて、僕はリフレッシュができる場所をもうひとつ見つけた。高円寺や中野、阿佐ヶ谷、荻窪の周辺に立ち並ぶ、個性的な店の数々だった。

 

中央線の高架線周辺の入り組んだ路地には、こじんまりした飲み屋やカフェ、雑貨屋、ライブハウス、古書店や古着屋、中古レコード店などがひしめいている。そのどれもが独特の雰囲気を醸し出していて、品揃えはもちろんのこと、店の内装やBGMにも個性の限りが尽くされていた。

 

店が個性的なら店主もしかり。飲み屋のマスターひとつをとっても、もと銀座の料亭の板前、もと新宿思い出横丁の有名もつ焼き店の職人、もと週刊誌の契約記者、もと児童文学の作家、もと円谷プロの特撮セットを作っていた人……と、書き出したらきりがない。極めつけは現役の僧侶が経営している中野のバーで、カウンター越しに説法や人生相談が交わされていた。

 

それらの店は、店主と客との距離が密接であることも特徴だった。

 

あるカフェでは店内の一部をギャラリーとして開放し、アーティスト志望者の個展を催したり、常連客が作った雑貨や陶芸、ミニコミ雑誌などを販売している。別の店では店主と客とがバンドを組み、定期的に店内ライブをやって大繁盛している。雑居ビルにはオープンスペースのような場所もたくさんあって、トークイベントや演劇ワークショップ、インディーズバンドのセッションや詩の朗読会など、様々なジャンルのイベントが行われていた。

 

とくに僕が足繁く通ったのは、自然食品や自然化粧品、さまざまな雑貨や書籍、エスニック音楽のCDなどを扱う老舗の店舗だった。この店の三階にあるフリースペースでは、癒しをテーマとしたさまざまな催しが頻繁に行われていた。音楽セラピー、アートセラピー、呼吸を整える瞑想、体を動かすワークショップやグループカウンセリングなど、心理学の本でお馴染みの療法が目白押しだった。「いつか受けてみたい」と切望していた心理療法との出会いが、まさかこんなにあっさりと成し遂げられるとは……

 

僕は片っ端からセラピーイベントに参加した。店内には他の場所で行われるワークショップのチラシも置かれていたが、それらを求めて遠方へも向かった。当時はオウム真理教の事件の記憶が生々しく、ヨガや瞑想のクラスに足を運ぶときには警戒したが、どうやらカルトと繋がっている心配もなさそうだった。

 

効果には予想以上のものがあった。特定のロジックに沿って音楽を奏でたり、体を動かしたりすることは、それだけで頭に溜まった鬱憤を取り払ってくれる。会社へ行っても、上司や同僚から「君、最近表情が変わったね」と何度も言われた。なかにはお金のかかるセミナーもあったが、それで人生を変えてくれるのなら安いものだ。僕は貯金を湯水のようにつぎ込んだ。

 

だが、僕が欲しかったのは単純な癒し効果だけではない。正直に言うが、本当の目的はセラピストや他のクライエントと人間的につながることだったように思う。あのような場にいるのは、みんな僕と同じように心の傷をもつ人ばっかりだ。社会では相手にされない僕だって、あそこへ行けばきっと友だちや恋人ができるに違いない……

 

だが、これは期待外れに終わった。

 

セラピストはれっきとした専門職であり、どんなに人が好さそうに見えてもはっきりと距離感が取られていて、プライベートで人間関係を結べるような雰囲気ではない。これは参加者同士の関係も同様で、終了時間がくると、みんなさっさと荷物をまとめて帰ってしまう。ワークの最中はどれほど高揚感や一体感に包まれていても、終わってしまえばそれまでということか。考えてみれば、彼らはもともと人間関係に苦しんでいたり、異性にトラウマなどを抱えていたりする人たちだ。簡単に友人になれなかったとしても無理はない。なかには事前にナンパ行為禁止の誓約書を書かされるようなワークショップもあった。

 

一方で、音楽セラピーやトークイベント、フリーダンスなどのワークショップでは、終了後に二次会が開かれることもあった。僕は嬉々として参加したが、残念ながら決して楽しい場とはいえなかった。飲み会で語られる話題が内輪ネタばかりで、僕のような新参者は浮き上がってしまうのだ。ならば主催者が気づかってくれてもよさそうなものだが、彼らが話したがるのは何年もワークショップを渡り歩いている常連たちばかりで、こちらに目をくれようともしない。思うに、彼らはアルバイトをしながら芸術活動を続けるなど、自由人として生きている人が多かった。もしかしたら、会社帰りにネクタイ姿でやってくる僕を警戒していたのかもしれない。

 

それでも、幅広く声掛けをしているうちに、少なからぬ人と連絡先を交換することができた。嬉しいことに、女性も数人含まれている。なかでもボディワーク・セラピーで隣席だったOLさんは積極的に話しかけてきて、日を改めて会おうとまで言ってくれた。こう書くと快活な女性を想像されそうだが、彼女は服装もルックスもいたって地味で、表情に乏しく、声にも覇気がない。気になることは多かったが、ここではナンパ禁止の誓約書を書かされることもなかったので、とりあえず快諾することにした。

 

これがとんだ落とし穴だった。

 

のこのこ待ち合わせの公園にやってきた僕を待っていたのは、ネットワークビジネスの勧誘だった。季節は春で、園内には桜や菜の花がいっぱいに咲き乱れていたが、彼女はまったく関心を示さない。散歩もそこそこにベンチへ座ると、チラシを僕に手渡し、銀座で行われるというセミナーへの参加を勧めてきた。説明によれば、何やら新しいお金のシステムを学ぶことができるという。日本人の古くさい価値観を手放して、働きづくめではない豊かな人生を目指してゆくことが目的らしい。

 

だが、彼女の日常生活が「豊か」でないことはひと目で分かった。

 

コートはそれなりの物を着ていたが、その下にはくたびれたセーターが覗いていた。履いているスニーカーも汚れとほころびだらけだった。それに彼女の態度には覇気がない。目つきも口調もおどおどしていて、まるで何かに怯えているようだ。マルチ商法の勧誘といえば、極めて強引でしつこいイメージがあるが、彼女の場合は正反対だった。これでは勧誘ノルマを達成することも難しいだろう。

 

これは想像だが、彼女はネットワークビジネスのカモにされていたのではないか。もしも商品を捌き切れず、大量に抱えているようであれば、支払だけでもべらぼうな金額になるだろう。新しいセーターやスニーカーを買えなかったとしても無理はない。

 

だが、考えてみれば、彼女も何かしらの心の傷を負っていたからこそ、心理療法の場に来ていたはずだ。成功哲学を熱弁する華やかなセミナーも、彼女にとっては大切な救いの場となっていたのかもしれない。そんな人間をターゲットにする手口には怒りを覚えたが、僕は彼女に論争を吹っ掛けるようなことはしなかった。セミナーの参加をやんわりと辞退すると、ひとりで公園を後にした。

 

不愉快な出来事もままあったが、僕は着実に心の健康を取り戻していった。騒音を出す二階の住民も引っ越していったが、できればしっかりした建物に住みたいと思い、鉄筋のマンションへと転居することにした。

 

ほどなくして、職場では人事異動があり、僕はこれまでよりずっと楽な部署へと移された。いつも癇癪を起しているのが疎まれたのか、それとも明らかに病んでいる僕を気づかってくれてのことか。理由はともあれ、この異動はますます僕の回復を早めてくれた。日常の仕事にもやりがいを感じるようになるし、周囲との関係を取り戻すための努力もした。新しい部署の上司からも評価されているのが実感できた。

 

こうなると人間という生き物は欲が出てくる。いまさらながら、僕はさらなる努力で失われた評価を挽回することを考えるようになったのだ。結果的に、この努力はあと一歩で報われるところまで行くのだが、それが入社以来最悪の悲劇へとつながるきっかけだった。次回の記事で詳述したい。

 

続く

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ADHDとして生きるということ⑭ 二次障害の併発

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入社して何年も経つと、大卒の同期のなかには職制へ昇格する者も出始めた。落ちこぼれの僕には縁のない話だ。高卒の先輩の中には「そのうちお前もどんどん偉くなって、俺たちを顎で使うようになるんだろうな」などと冷やかす人もいたが、むろん本気でそんなことを懸念している者はいない。僕自身、いまの実力では昇格など絶対あり得ないと自覚していた。それよりも心配していたのはブルーカラーへの左遷だ。

 

周囲にはそんな人が何人もいた。みな何かの失点をやらかした者ばかりだった。就業規則を犯した者、同業他社に大手取引を奪われた者、顧客からのクレームが絶えない者。なかには取引先の女性職員へのセクハラが発覚したケースもあった。

 

いずれにせよ、営業職から現場職への異動というのは、大抵は懲罰人事的な意味が込められていた。僕自身、ミスをするたびに「大卒だからって、そんなことやってると本当に作業服を着せるぞ」とさんざん恫喝されてきた。まるで流刑地にでも飛ばされるような言い草だった。こんな状況だから、現場担当者のモチベーションは否が応でも下がってゆく。もちろん、それでも真剣に仕事をしている人はたくさんいたのだが、社内的な位置づけが高いとは言えなかった。

 

これが大きな問題だと、僕はいまでも思っている。

 

この会社の本業は物流だ。そしてその物流をひとえに担っているのが作業現場だ。本来であれば、顧客サービスを支える基幹の部署とされてもおかしくはない。ところが会社の考え方は違っていた。

 

経営の要はあくまで商材の販売拡大であり、そのためのマーケティングを構築することが、企業としての最重要課題とされた。その反面で、ブルーカラー部門の設備投資や新技術の導入には関心を示さない時代が長く続いた。先の記事でも述べたが、作業現場の経験のない大卒者を営業の即戦力として配置するような人事改革も、そのような方針の一環として強行されたものだった。それから十年、二十年と過ぎ、やがて日本にも外資系の巨大ネット通販が台頭してくることになる。時代最先端の流通インフラを武器とする強敵だ。その脅威を前にして、当時の業界は「黒船だ」などと大騒ぎしていたが、それでも抜本的な物流改革は遅れに遅れ、じわじわと市場を侵食されながら今日に至っている。

 

話をもとへ戻そう。

 

何年も営業をやっていれば、いくら要領の悪い僕でも少しは仕事を覚えてくる。それなりの評価をしてくれる取引先も出て来たし、少しは人間関係の立ち回りも上手くなった。ミスや物忘れは相変わらずだったが、自分なりに記録ノートやスケジュール表を作成することで改善がみられた。いまでいうところのライフハックのようなものだ。そのおかげなのか、何とか懲罰人事のようなものは免れることができた。査定に伴う面接では、上司から「曲がりなりにも営業合格」と言ってもらえた。

 

こうして僕は、昇格とはいかないまでも、それなりに高度な仕事を任せてもらえるようになった。その分責任も大きく、入力違いや連絡漏れなどの些細なミスが大問題に直結する。ADHDには最も不向きな仕事だったが、やはり着任当初は嬉しかった。とにかく落ち着いて、チェックを二重、三重に徹底すれば絶対防止できる。そう自分に言い聞かせてデスクに向かった。

 

だか甘かった。

 

着任から数か月目にして、僕は考えられないような失敗をやらかした。重要なデータ入力をごっそり落とし、各取引先との信用問題にまで発展してしまったのだ。原因は、内部連絡文の内容を誤って解釈したためだった。(ADHDにはこのような勘違いも極めて多い)

 

たちまちフロア中が大騒ぎになった。ミーティングスペースには関連部署の課長職が何人も集まり、僕の起こしたトラブルの対応を検討している。先輩たちは仕事を中断し、謝罪のために取引先へと飛び出していった。僕はパソコンに向かって事後処理を続けたが、その間にもクレームの電話がジャンジャンかかってくる。集中力はますます散漫になり、再入力でも何か所ものミスが発覚した。もはやまともな仕事ができる状態ではなかった。

 

何とか事態は収拾できた。周囲が懸命に駆けずり回ってくれたおかげだ。だが、僕の精神は回復不能なほどのダメージを被っていた。きっとまた自分はミスをする。あり得ないミスでまた迷惑をかけるに違いない——そんな強迫観念が常に頭にまとわりついて離れなくなった。だから何度もチェックをする。それでもどうしても気が済まずに、また同じチェックを繰り返す。おかげで仕事はどんどん遅れていった。ひとりだけ残って最終退出ばかりしていたから、守衛さんたちにも呆れられた。それでも終わらず、翌朝七時に出社するようなことも普通になっていたから、疲労は限界にまで溜まってゆく。昼食を抜いて仕事することも増えた。不眠のまま夜を明かすことも常態化していた。しばらくおさまっていた希死願望がぶり返してきたのもこの頃だった。

 

ある日曜日、僕は何となく東池袋の中央公園へと足を運んだ。足元でうろつく鳩の群れを追い払いながら、汚れていないベンチをみつけて腰を下ろす。間近にはサンシャインビルがそびえ立っていた。俳優の沖雅也が身を投げたのは、あれによく似た京王プラザホテルだったろうか。

 

そういえば、入社当時も、嫌なことがあるたびに池袋へ出ては、一日中カフェやベンチで呆けていたことを思い出す。あれからもう何年も経つのに、自分は会社員としてまったく進歩がみられない。公園にはホームレスらしき老人が何人もいた。みんなパンパンに膨れた紙袋を脇に並べて、文庫本を読んだり、ラジオに耳を傾けながら過ごしている。もしも自分がもっと貧しい家の生まれで、何の学歴もないまま東京へやって来ていたとしたら、あちらの仲間に入っていたのは確実だろう。

 

にもかかわらず、自分は相も変わらず背広を着て、毎日会社に通える恩恵に預かっている。たまたま医者の息子に生まれ、苦労もせずに大学を出て、運よく大手企業に紛れ込めたおかげだった。純粋に自分の力で勝ち取ったものなど何ひとつないのだ。最低だ。まったく人間として最低の奴だ。これだけの幸運に恵まれながら、自分は親にも、会社にも、何ら報いることができていないじゃないか。

 

今回のミスを挽回すべく、僕はその後も早朝出勤と最終退出を繰り返して頑張った。だがすべては徒労に終わった。会社勤めの方ならお分かりと思うが、日本企業の人事考課は「出来て当然」「出来なければ失点」「断トツに出来過ぎて初めて加点」の減点方式であることが多い。一度マイナス評価を下されたら最後、返り咲くにはウルトラDくらいの逆転劇が必要となる。(と、ある経済小説に書いてあった)それでも諦めずに突き進んでいったが、結果は悲惨なものだった。

 

それからさらに数年が経った。入社から十年以上が過ぎていた。

 

その頃になると、同期はもとより、後輩のなかからも僕を追い抜き、昇格する者が出始める。もう中堅社員の域に差し掛かっている落ちこぼれに対して、周囲が見る目はこれまで以上に冷たくなった。入社当時に比べれば、つまらないミスは少なくなったが、それは日々病的な強迫観念にかられつつ、チェックの上にもまたチェックを重ねてきた結果に過ぎない。

 

そんなことを繰り返していたため、僕の神経は完全におかしくなった。

 

些細なことにもイライラする。人当たりもどんどんきつくなる。特に耐えられなかったのは電話のベルだ。もうミスは繰り返すまいと懸命に検算をやっているところへ、ひっきりなしに耳障りな高音が鳴り響くのだからたまらない。もしも内容がどうでもいい話だったりしたら、容赦なく怒鳴りつけることもあった。当然相手も黙ってはいないから、すぐに大喧嘩になってしまう。挙句には受話器を本体に叩きつけ、ますます周囲のひんしゅくを買っていた。いつしか僕は、社内で「怖い人」のレッテルを貼られるようになってしまった。

 

発達障害や感覚過敏の当事者であれば、こんな状況で電話のベルを聞くことが、どれほど苦痛であるかを理解していただけると思う。だが、それ以外の人からみたら、忍耐力のない幼児レベルだと思われるのが関の山だ。僕自身、もしもこんな社員が他にいたら、絶対に話しかけようともしなかっただろう。だから懸命に耐えるしかないのだが、どうしても感情が爆発するのを抑えられない。自分をコントロールすれば済むことなのに、まったくなす術がないのが情けなかった。

 

せっかく飲み会で築いた人間関係も崩れようとしていた。かつては大勢いた飲み仲間から、まったく誘いがかからなくなったのだ。終業時間が近づくと、前後左右の面々が合図を交し合い、同じ時間に揃って場を去ってゆく。ひとりだけ取り残された僕は、気づかないふりをして残務整理を続けていた。

 

さすがに忘年会や新年会のような大きな酒席には呼ばれたが、話しかけてくれる相手はひどく少ない。かつてはあんなに楽しいと思っていた飲み会が、いまは退屈に耐える時間でしかなくなっていた。打ち上げが終わると、みんな二件目の飲み屋やカラオケへと流れてゆくのが恒例だ。だが、僕は人ごみに紛れながら彼らを振り切り、隠れ家替わりの店でひとり飲みをするようなことを続けていた。

 

新人時代は飲み会が嫌だった。だが、いざまったく誘われなくなってみると、その寂しさが身に染みてくる。仕事のあとの予定がないということが、まさかこれほどつらいものだったとは。時間を持て余した僕は、社外の学習サークルに参加したり、自宅近くの飲み屋で友人作りに励むようになったが、それでも虚しさ、寂しさを埋めることはできなかった。

 

ある日のこと。僕を除く課のほぼ全員が、終業時刻を知らせるチャイムと同時にいっせいにいなくなってしまった。いつものちょい飲みにしては人数が多い。時間も早すぎる。何があったのかと思っていると、やはり居残っていた高齢の課長が「何だ、君は行かないのか」と訊ねてきた。訳も分からないまま「いいえ」と答えると、課長はすべてを悟ったように意味ありげな笑いを浮かべた。

 

あとでわかったことだが、どうやらこの日は、別の部署も交えたボーリング大会が行われたらしい。仕事上、とても密接な関係にある部署だ。彼らと関係を作っておくメリットは大きい。ところが僕は蚊帳の外に置かれた。聞いた話では、同じ課のみならず、相手の部署でも僕を嫌がる人が多くいたのが原因らしい。まあボーリングなどどうでもいい。あんなものはもともと好きでも何でもなかったが、自分に対するマイナス評価がそこまで広く浸透していることがショックだった。

 

突然、友だちの少なかった幼児の頃を思い出した。

 

あの頃いつも孤立していたのは、ひとえに弱さが原因だった。だから強くなろうとして色々なことをやった。無理をして体育会に入部したり、気の合わない優等生とつき合ってみたり。それもこれも、ただ誰からも馬鹿にされずに過ごしたいという「ありきたりな日常」が欲しくてやっていたことだ。

 

だが、切実な願いは大人になっても叶えられることはなかった。何年経っても仕事のミスを連発しているのだから、当たり前といえば当たり前かもしれない。いじめや嫌がらせが煩わしくて、舐められまいとひとすら強さを装い続けてきたが、そんなものはすぐに見抜かれてしまう。強さのかわりに得たものは、ただ「怖い人」というレッテルだけだった。

 

ここまでくれば、発達障害という言葉を知らなくても、さすがに自分の強烈すぎる個性の問題を深く考えるようになった。また、そのような個性の持ち主が、ときには歴史に名を残すような偉業を成すことがあることもそれとなく知った。だが、そんな個性なら無くてもいい。ただ当たり前の人生を送りたい——

 

このころから、僕は心理学や精神医療について、独自に猛勉強をするようになった。このことが、のちの人生に大きな転機をもたらすようになるのだが、この頃は何も気づかず、ただ心の救いを懸命に求め、専門書を読み漁り続けていた。

 

続く

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ADHDとして生きるということ⑬ 出世コースから外れて  

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結局、転職は叶わなかった。退路などないことを悟った僕は、つらさに耐えながらも現職にしがみつく道を選んだ。

 

だが、いくら努力してもミスは減らない。仕事は遅い。要領も悪いのも相変わらずだ。そのたびにたくさんの人に迷惑をかけるし、怒られる。だから人間関係には人一倍気をつけなければならなかったのだが、そちらも修復不可能なほどこじれていたのだから最悪だ。原因をひとことで言えば、企業人たる僕の基本態度がなっていなかった。

 

よく専門家は「ADHDアスペルガーに比べて人間関係の問題は少ない」と説明する。たしかに僕には「人の表情が読めない」とか「曖昧な表現が苦手」みたいな極端な不都合はない。だから、腕一本が勝負の技術者のような職種であれば充分やっていけたと思う。だが悲しいかな、サラリーマンという仕事はそれ以上の対人スキルを求められる。僕はその域には到底達していなかった。

 

具体的には何が問題であったのか。詳細に挙げてゆこう。

 

まず第一に、僕は人の名前を覚えるのが苦手だった。顔そのものは一度会ったら忘れないのに、固有名詞を何度頭に叩き込んでも忘れてしまう。これが致命的な欠陥だった。

 

出世するサラリーマンというのは、とにかく人に関する情報を知り尽くしている。社内の人間はもちろんのこと、取引先や同業他社など、仕事にかかわるあらゆる人々について、名前や肩書、経歴や実績、はては出身大学やら出身地のような細かなことまで、極めて幅広く把握しているのだ。

 

かたや僕はどうかといえば、きちんと頭に入っているのは同じ課の人間とその周辺くらいのもので、フロアに溢れる全人員の半数にも満たなかったと思う。ときには大手取引先の社長から「そういえば、御社の〇〇支店にいた本部長さんの名前、何といったかね」と尋ねられ、答えられずに大恥をかいたこともあった。この社長は、しばしばわざとこういう質問をして、相手の「レベル」を試すのだということを後から知った。

 

話はそれるが、暗記が苦手なのは仕事の場だけの話ではない。実は僕は、テレビに出てくるタレントや有名人、アスリートらの名前もすぐ忘れてしまう。ひどいときには「君、本当に日本人か」と呆れられてしまうほど重症なのだ。まあ、僕も現在は中年であり、記憶が怪しいのはお互い様だから「よくあること」で済んでしまうのだが、二十代の頃からその調子なのが問題だった。

 

もちろん何の対策も打たなかった訳ではない。暇なときには名刺入れを見返したり、携帯できる取引関係者名簿を自作したりと、さまざまな対応策を工夫した。だが、社内でそんな苦労をしているのは僕くらいのものだ。みんな普通に仕事をしているだけで、すぐに人名を暗記してしまう。ましてやテレビタレントの名前など、ぼんやりテレビを観ていればおのずと頭に入ってしまうのが普通だろう。ところが僕にはそれができない。発達障害との因果関係は分からないが、やはり脳機能に何かしらの問題があるのは間違いないと思う。

 

だからといって、僕は高齢者のように暗記力の全般が劣っている訳ではない。視覚的な映像であれば一瞬で脳に焼き付いてしまうし、当時は珍しかったワープロを習得するのも早かった。それ以上に自信があるのが、以前に鑑賞した漫画や小説、映画やテレビドラマのストーリーを事細かに覚えてしまうことだ。現在も人気の「ガラスの仮面」という漫画の冒頭で、女優志望の主人公が一度観たドラマの内容を丸暗記してしまう場面が出てくるが、僕もそれに近いレベルといっていい。ときには友人や恋人もびっくりするほどの特技なのだが、もちろん会社で何の役にも立たなかったことはいうまでもない。

 

それでもまあ、ただ名前を忘れるだけならなんとかなる。社内の人間はみなネームプレートを着用しているし、顧客訪問時には事前に相手のプロフィールを再確認しておけばよい。困るのは、突然来社した外部の人の名前が出てこないことくらいのものだ。

 

むしろ深刻だったのは、仕事上でつき合わざるを得ない人々のことを、心のどこかで拒絶してしまっていたことだろう。

 

サラリーマンの評価を決めるのは何か。むろんこの企業にも体系化された人事考課があった。その判断基準は、一見極めて合理的で客観的なもののようにみえるが、それを運用するのは所詮人間だ。どうしても主観が入るし、感情も混じる。結局、出世の最後の決め手となるのは「しかるべき人物からどれほど気にかけて貰えるか」にかかっていた。極論のようだが紛れもない事実で、僕自身、多くの先輩たちから「この会社で偉くなりたかったら評価の高い者に好かれろ。ただ仕事で頑張るだけじゃ駄目だ」と異口同音に聞かされてきたものだった。

 

そのことをよく分かっているから、若手社員は酒のつき合いが実によかった。カラオケやボーリング大会などのイベントにも積極的に参加し、縦横の人とのつながりを作っていった。一度、同期の有志が泊りがけでスキー旅行を企画した際には、人事部の育成担当者もやってくることになったため、スキーの未経験者までが競うように集まってきた。参加者は四、五十人くらいいたと思う。

 

新人のなかにはゴルフコンペの頭数として重宝されている者が何人もいた。さらに運動神経がよければ、業界対抗のスポーツ大会の選手として引っ張りだこだった。かたや僕に声がかかることは絶対になかった。むろん、僕の運動音痴をひと目で見抜かれてのことだろう。だが、もしも今後本当に企業人としてやってゆきたいのであれば、不器用だろうが足が遅かろうがなりふり構わずどこへでも飛び込み、顔を売ってゆくべきではなかったか。むろん僕が野球やサッカーのレギュラーに抜擢されるなどあり得ないことだが、それなら観客席で応援に徹しているだけでも充分だったはずだ。

 

ところが僕は、そんなふてぶてしさ、図々しさに欠けていた。同期の者たちが休日返上で人間関係づくりを進めているのに、自分はいつも蚊帳の外に置かれている。それでも呑気な僕は危機感を感じていなかった。むしろ休日を確保できた安心感ばかりがあった。平日でさえ披露しきっているのに、さらにプライベートな時間を割いて職場とのつき合いに明け暮れるなどとんでもない。休めるときは休んで体力を温存しなければ——

 

実際、営業職への配属から一年も経つと、僕の心身は疲労の限界にきていた。とりわけ精神的な消耗は深刻だった。といっても意気消沈しているのではない。逆に緊張感からテンションが上がってしまい、正常な精神状態が保てないことが続いていた。やがて上司や先輩、ときには同期も、異口同音に毎日「落ち着け」と叱咤するようになった。そのあとに指示や連絡が続くことも多かったが、内容はまったく頭に入っていない。おかげでまたミスをする。そしてその都度動揺する。感情が顔に出てしまう。つい大声も上げてしまう。そこで電話でも鳴ろうものなら、ますますイラつき、ときには相手を怒鳴りつけるようなことさえある有様だった。

 

もはや命の電話で解決できるレベルではなかった。もしもこのとき心療内科を訪ねていたら、のちの人生も少しはましになっていただろうか。いやいや、この時代の精神医療のレベルでは、よほどいい医者に巡り合わない限り、薬漬けにされた挙句に休職へと追い込まれていた可能性もある。いずれにせよ、僕はまだ自分の精神疾病など考えもしなかった。うつ病のような病気が世間に認知されるにはもう少し年月が必要だった。

 

しかしながら、どんな理由があるにせよ、自分の感情も抑えられないようではサラリーマン失格だ。僕は人事考課を挽回不可能な域まで急落させていった。

 

そのまま数年があっという間に過ぎた。元号は昭和から平成へと変わっていたが、僕はまったく進歩のないまま足踏みしていた。春になると、部署には必ず新人が配属されたが、僕はいつまで経っても彼らの指導を任せてもらえなかった。少しでも先輩風を吹かそうものなら、口の悪い職制から「お前だって新入社員みたいなもんだろう」と罵倒が飛んだ。取引先の人が見ている場でもお構いなしだった。

 

こんな僕でも、季節になれば取引先からたくさんのお中元やお歳暮を頂いた。別に自分の実力を買ってくれていた訳ではない。あくまでも背中に背負っている企業の看板のおかげだ。そのくらいは、いくら鈍角な僕でも自覚していた。

 

贈呈品には酒類が多かった。珍しいものでは、地酒ならぬ地ウイスキーを送ってくれる地方取引先もあったが、ベテランの職制のなかには「酒の味も分からないくせに」と陰口を叩く人もいた。靴下やハンカチのような日用品を頂けるのも有難かった。ADHDならではの不精な性格のために、これらの物を定期的に買い替える習慣がなかった為だ。もしも「ハンカチが古くなったな」と思ったら、出勤前に包装と箱を乱暴に破いて、中身をポケットにねじり込む。色やデザインを確かめる余裕もなかった。

 

ある日のこと。数週間ぶりにクリーニングへ出したスラックスのポケットからハンカチが出てきた。入れっぱなしだったしわくちゃなハンカチには、犬や鳥などの絵が細かく散りばめられていた。見慣れていたはずのハンカチの、こんな見事で繊細なデザインに、僕はまったく気づかずにいた。まさか仕事中の自分がそれほど追い詰められ、余裕のない状態に晒されていたとは。その日から、僕はこまめにクリーニング店とコインランドリーへ通うようになった。

 

ともあれ、人間関係だけでも何とかしなくてはいけない。このまま突っ走っていったら、本当に会社で四面楚歌に置かれてしまう。そんな「まったなし」の状態を切り抜けるためにやったのが、とにかく酒席を盛り上げることだった。

 

これまで何度も書いてきたように、僕は決して酒が強い方ではないが、それでも懸命に飲みまくった。スポーツ大会にもゴルフにも誘われない僕が、深刻な孤立を避けるためにはそうするしかなかったのだ。幸いにも、僕はアルコールが入ると饒舌になる。日中、ストレスで陰鬱にしているのとは大違いで、そのギャップが高卒の先輩たちを中心に面白がられた。そのことでいろいろな繋がりができ、仕事で困っている僕を助けてくれたり、相談に乗ってくれる人も少しずつ増えてゆく。新入社員の頃、あれほど嫌でたまらなかった酒が、結局は僕と職場とを結ぶ命綱となった。

 

新年会や納涼会など、もっと大きな宴会でも活躍した。大卒の先輩らがつまらないマンネリ芸を披露したあと、僕はたいてい最後のほうで一芸やらされ、大いに場を沸かせた。特に人気があったのはオリジナルの替え歌だった。内容はといえば、仕事の愚痴やら下ネタやらを盛り込んだ際どいもので、一歩間違えば場をしらけさせるリスクがあったが、その点は充分に留意してひねりを効かせる。そうして考え抜いたネタが受けたときは最高だった。宴会の幹事をやらされることも増え、ときには「君はいい店を探してくるね」と褒められることもあった。

 

その手腕を買われてか、今度は課全体の旅行の幹事もまかされることになった。現在の会社では考えられないかもしれないが、この時代のサラリーマンやOLは、秋頃になると、たいてい一泊二日の旅行へ付き合わされるのが恒例となっていた。バスで移動中の時点で缶ビールをあおり、宿に着いたあとも宴会が長時間続けられ、翌日は二日酔いのまま地元の観光名所を連れまわされる。東京へ戻るのは、いつも夕刻過ぎだった。

 

僕はこれを一新した。スケジュールのうち、翌日の観光名所めぐりを一切止め、疲れ切っている皆の帰宅を早めることにしたのだ。そうすると名所めぐりで使うための経費が浮くことになるが、その分を宿代と宴会代に上乗せすることで、例年よりもはるかに高級な温泉旅館へ泊まり、豪華な料理をふんだんに味わってもらうことができる。

 

これが大当たりだった。

 

バスが旅館に着くと、風情ある門構えや建物に歓声が上がった。入口や廊下にも風格があった。部屋も広い。景色もよい。温泉もおおむね好評で、露天風呂の向こうにはライトアップされた滝が配されていた。宴会には活け造りの大皿が食べきれないほど並んだ。おまけに大吟醸の一升瓶を何本もサービスしてもらった。ここまでは上々だ。

 

だが、心配なのは翌日恒例の名勝散策をいっさい止めてしまったことだった。すべては僕の独断でやったことだが、もしかしたら「もう旅行、終わっちゃったの」などとブーイングが出たりしないものか。

 

結果から言えば、それは杞憂に終わった。旅館のチェックアウトを済ませると、みんなさっさとバスへ乗り込んでゆくだけだった。そのまま正午過ぎに東京へ着いてしまったが、文句を言う者はひとりもいない。夜にさんざん飲み明かしているのに、翌日も二日酔いの頭で午後まで景勝地をめぐるなど、本当は誰もやりたくなかったのだ。いま思えば、これはADHDのプラス面が存分に発揮された好事例といえるだろう。形式や慣習にとらわれず、他にない発想を思いついたおかげで良い結果が出すことができた。もっとも、旅行幹事というスタンドプレーでなければ、こんな身勝手は許されない。企業組織にとって、ADHDが扱いにくい存在であることに変わりはなかった。

 

ともあれ、この旅行のおかげで課長が僕をみる目は変わった。その後もことあるごとに「君は責任感がある」と言ってくれるようになったのだ。仕事ではなく、たかが旅行幹事でそこまで評価が変わるのかと思われるかもしれない。が、すでに書いたように、人事考課というのは額面ほど客観的なものであるどうかは疑問だ。どうしても評価者の主観が入る。好みも出てくる。もちろん仕事の実績も重視されるが、それ以外の「目に見えない要素」も大いに大切なのだった。

 

続く

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ADHDとして生きるということ⑫ 正式配属

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醜態を晒した研修の日々がやっと終わった。確かめた訳ではないが、評価はたぶん同期で最下位だったのではないか。僕は試用期間で会社から追い出されることを恐れたが、さすがにそれは杞憂に終わり、本社営業部への正式配属を告げられた。

 

直属上司の付き添いで、営業部のあるフロアへと向かう。足を踏み入れたとたんに、そのあまりの広さに圧倒された。通路の両脇に広がる空間にはびっしりと机が並べられ、部署を示すプレートが下げられている。その隙間を大勢の職員や顧客が行き交い、なんどもぶつかりそうになった。周囲では電話がなり続け、商談や交渉、連絡や指示など、さまさまな会話が飛び交っている。研修先の営業所とはまるで違う雰囲気に、ただただ飲み込まれるばかりだった。

 

所属部署はフロアの中ほどにあった。課のメンバーを紹介されたあとで、「ここが君の席だよ」と告げられる。研修期間には与えられることのなかった自分のデスクだ。それから名刺と社員手帳、社章バッチや食堂の食券を渡される。周囲では、先輩たちが取引先へ電話をかけ、新人の僕を紹介してくれているらしい。そのやりとりを聞いているうちに、あらためて「自分は正式な営業部員になったんだ」という実感が湧いてきた。 

 

翌日から本格的な仕事が始まった。

 

とはいえ、もちろん初日から取引先へ行って商談をやらされるようなことはない。どんな職種でもそうだと思うが、新人が最初に任せられる仕事は地味なものだ。

 

パソコンなどのインフラが未整備なこの時代では、ほとんどの商取引がペーパーを介して行われる。まずはそれらを確認し、処理してゆくことから教えられた。ADHDにとっては最悪の作業であり、のちに僕の評価を著しく失墜させる一因となるのだが、さすがに初日からミスを責められるようなことはなかった。

 

午後になると、先輩の付き添いで社内の各部署へ挨拶をした。スタッフ部門をひとまわりした後、階段を下って流通部署へと顔を出す。いわゆるブルーカラーの働く現場だ。

 

営業フロアとは別の意味で、作業現場の眺めも壮観だった。広い空間にはベルトコンベアが迷路のように巡らされ、無数の商材が洪水のように流れてゆく。その合間におびただしい人々が配置され、商品の起票や仕分け、検品、梱包など、さまざまな作業を熟練の手捌きでこなしていた。まさに絵に描いたような人海戦術だ。狭い通路にはフォークリフトが走り回り、ときどき向きを変えては、高い天井に届くほど積まれた荷を運んでゆく。北海道から九州、沖縄、さらには遥かな離島まで、ありとあらゆるエリアににおびただしい商材を流通させるため、納品口にも、受品口にも、見上げるような大型トラックがひっきりなしにやって来た。

 

先輩は僕を現場の職制たちに紹介してくれた。年季のはいった作業服を着て、屈強な体を並べた彼らの前に立つと、ネクタイ姿の自分が何ともひ弱な存在に思えてくる。僕は気を奮い立たせながら笑顔を作り、ひとりひとりに深々と一礼した。

 

なぜそこまで気を使うのか。これは研修期間に散々聞かされてきたことなのだが、この会社では、営業職がブルーカラーと揉め事を起こすのはご法度だった。彼らから嫌われたら最後、顧客からの緊急発送や大口起票などのイレギュラーな要請には一切応じてもらえず、すべて自分で処理する羽目になってしまう。逆に彼らを味方につけたら百人力で、さまざまな無理難題にも対応してもらうことができるという訳だ。

 

営業職を拝命して以降、何年経ってもミスを連発していた僕は、そのつどたくさんの現場担当者のおかげで窮地を救われることになる。愚痴を言い、ときには激怒しながらも、彼らは僕のやらかした数々のトラブルに対処してくれた。僕のみならず、困った顧客のために尽力してくれた人も数多い。彼らのことを思い出すたびに、誇張ではなく、いまでも手を合わせたい気持ちになる。

 

さて、多忙のなかで数週間が過ぎていった。この頃になると、ニューフェイスとして歓迎されていた僕も少しずつボロを出すようになってゆく。

 

上長からまず目をつけられたのは整理整頓だった。冒頭でも書いたように、この時代の商取引には大量のペーパーが用いられていた。現在ではメールで事足りるような連絡でも、いちいち膨大なファックスを介してやり取りするため、未処理のもの、未読のものが日を追うごとに溜まってゆく。その他にも、発注書や請求伝票、内部資料や業務連絡、現場の発送記録や起票明細などなどが毎日山積みにされた。それらに混じって、ごく稀ではあるが小切手の入った書留が出てきたりするのだから心臓に悪い。また、取引先への販売宣伝もすべてチラシで行われるのだが、多忙のあまり顧客ごとに配布している余裕がなく、ひどいときには、商材の発売日が過ぎても放置されていたりした。

 

僕のデスクは、たちまち壮絶なごみ溜めと化した。書類はもとより、社内報や給与明細さえ持ち帰る余裕がなく、ひたすら引き出しに溜まってゆく。キャビネやロッカーも同様で、取引先からの贈呈品や女子社員の旅行みやげなど、あらゆるもので溢れ返っている状態だった。

 

上長からは何べんも怒鳴られたが、いくら整理を試みても、数日後にはすぐ同じ状態に戻ってしまう。しかたがないので、僕はそれらのペーパーの山をときどき紙袋に詰め、自宅に持ち帰って整理をすることにした。会社よりは遥かに落ち着いた環境で、要らないものを捨て、連絡文を読み込む。ときには未処理の手書き伝票を発見し、危うく請求漏れを防いだこともあった。このような工夫もまた、現在でいうところの「発達障害ライフハック」ということになるのだろうか。

 

だが、この時代には発達障害という概念さえ存在しない。整理もまともにできない僕は、すぐに周囲から見下されるようになった。それに僕には、研修時代に埼玉県の支社でミスを重ね、周囲に迷惑をかけまくった前科がある。こういう悪い噂は一瞬で広がるのが企業組織の常だ。周囲はもとより、他部署や作業現場、取引先も、ある時期を境に態度が急変してゆくの分かった。

 

さらにもうひとつ。まるで小学校時代のイジメの再来のようだが、内翻足としての歩き方の異常さも指摘された。上長からは「そんな歩き方をしている営業があるか」とはっきり罵倒されたし、他部署からも歩き方の陰口をたたかれる。口の悪いブルーカラーの職員に至っては、「あんなフラフラ歩いている奴はフォークリフトで轢いちまえ」とのジョークまで言い合っているらしかった。

 

それにしても、たかが新人に過ぎない僕に対して、これほど激しく批判が集中するのはなぜなのか。

 

実は、この会社の営業担当者というのは、もともとは作業現場の職員のなかから特に優秀な者が抜擢されていた。彼らのほとんどは高卒者であり、入社後はまず肉体労働に就かされる。そこで最低でも数年間は苦労し、社会人としての素養を身につけた上で、ホワイトカラーへと栄転するのが長年の慣習だった。

 

ところが人事部は数年前より方針を変えた。毎年二十人ほど採用する大卒者をエリートとして優遇し、一年にも満たない現場研修を終えると、全員がホワイトカラーへと引き上げられるようになったのだ。高卒の先輩たちは一気にモチベーションを下げた。自分たちは営業職への転属を夢見て苦労してきたのに、その可能性を大卒の若造どもに奪われたのだから無理もない。逆の立場であれば、僕だって怒りを爆発させていただろう。

 

まあ、そのように優遇された大卒者が、それにふさわしい活躍をしているのなら「致し方ない」ということになるのだろう。ところが僕はどうだったか。実務ではミスを連発し、態度はいつもおどおどしていて、顧客とのビジネストークもままならない。そんな典型的なADHDの能無しが、偉そうにオーダーメイドの三つ揃えを着て仕事をしていたらどう思われるか。憎悪の対象以外の何物でもないではないか。

 

それでも、同じ課の先輩のなかには、懸命に僕のフォローをしてくれる人もたくさんいた。僕のためというよりも、まず顧客に迷惑をかけてはならないという意識が強かったのかもしれないが、この人たちの力添えがあったおかげで、激怒した取引先が同業他社に流れるような最悪の事態は常に回避することができた。いまでも頭が下がる思いだ。

 

だが、当時の僕はそんな先輩たちの想いに気づかず、新人育成に尽力した彼らを裏切る不義理を企てていた。まだ入社して一年目足らずなのに、退職を考えるようになっていたのだ。

 

その布石として、僕はまず社員寮を出ることにした。不動産屋で見つけたアパートは六畳ひと間。風呂もエアコンもなかったが、80年代の独身者としては平均的な住まいだった。部屋へ引っ越すと同時に、まず固定電話を引いた。転職活動には不可欠と思われたからだ。その日から、会社の帰りに書店へ立ち寄り、就職情報誌をチェックするのが習慣となった。

 

転職となれば、どんな職種を選ぶべきか。僕は迷わず編集職を志すことにした。ADHDという概念が知られるずっと以前から、自分は好きなこと、興味のあることにはどんな努力も惜しまない性格であることに気づいていた。逆にいえば、興味もないのに「仕事だから」と与えられた職務をまっとうすることは難しい。というかまったく出来ない。僕は腹をくくることにした。

 

もちろん、編集者のような専門職を目指すためにはそれなりのスキルが必要となる。僕は夜間に通える専門学校の講座を受けることにした。さらに文章力を磨くため、休日の大半を何かしらの文章を書くことに費やした。当時はまだワープロを持っておらず、原稿用紙に手で書きまくっていたから、すぐ指にタコができた。一度などは、仕事で販売促進の出張に行った際、電車移動の途中で膝に原稿用紙を広げ、一篇の記事を書き上げたこともある。まさにADHDの過集中の成果だ。

 

こういうことにのめり込むほど、日中の勤務に対するモチベーションは下がる一方だった。ストレスから毎晩酒を飲み、ほとんど眠らずに出勤したりしていたから、疲労も限界に近づいてゆく。当然ミスなどは激増し、その都度上長から怒鳴りつけられていた。

 

深夜になると、命の電話にもすがりついた。社員寮のときとは違い、いまでは自室に自分の電話がある。相変わらず回線は繋がりにくかったが、番号を繰り返しプッシュしているうちに、初めて相談員と通話することができた。男性の方だったが物腰は柔らかく、話しているうちに心が軽くなってくる。その日から、僕はこのライフラインを頻繁に利用するようになった。

 

ところが、何度も相談員と話しているうちに、彼らのカウンセリングには特定のパターンがあることに気づいてしまった。簡単に言えば、クライエントに自死を思いとどまらせるためのロジックのようなものが確立していて、相談員はそれに基づいて応対を繰り返しているだけなのだ。僕は完全にしらけてしまった。こんなのは自然な人間の会話じゃない。もっと血の通った、例えば落語に出てくる長屋の大家のような人生経験豊かな相談者というのはいないものか。

 

さらに文句を言わせてもらうと、命の電話は相談員ごとの技量の差も大きい。おかしな人に当たると最悪で、かえって傷口が深くなったりする。一度などは、あるミスから百万円弱の損失を出してしまいそうになったことを相談員のおばさんに伝えると、「そんな損害出したんだから責任を取らされるのが当然でしょ」とやられてしまった。人によっては、あれを言われただけで手首を切ってしまうのではないか。(後日、懸命な事故処理と幸運によって、何とか損失は回避できたが)

 

もちろん、彼らの尽力によって数々の人命が救われてきたのは事実だろうし、命の電話の存在意義を否定するつもりはない。ただ、僕個人に限って言えば、本当に悩んでいるときに寄り添って欲しいのは良き友だちや理解者であって、見ず知らずのボランティアではなかったようだ。後日、僕はさらに本格的な心の回復を望んで、さまざまな心理カウンセラーやセラピストを訪ねてまわったが、どうしても彼らの手の内というものを見抜いてしまう。まったく面倒な性分なのだ。

 

それはさておき……

 

ある日のこと。僕は愛読しているサブカル雑誌に、編集者を募集する求人広告が載っているのを見つけた。興奮のあまり立ち上がると、アパートを飛び出し、すぐに履歴書を買ってくる。翌日には電話で先方とアポを取り、面接の日取りを決めてもらった。

 

その出版社は、新宿の雑居ビルにオフィスをかまえていた。応接間に通されると、初老の社長と若手の編集者たちが並んで座っている。僕は封筒から履歴書を取り出すと、一礼して社長らに手渡した。

 

とたんにみなの顔色が変わった。僕の勤める大手企業の名を見つけて仰天しているらしい。履歴書を囲むようにして凝視したあとで、彼らは向き直り、社長がひと言口にした。

 

「端的に言おう、君は何があってもこの会社にしがみつくんだ」

 

あとはもう面接にもならなかった。若い編集者たちも「辞めたら絶対もったいない」「社員食堂がある会社なんてすごいじゃないか」などと、様々な言葉で僕を説得しようとする。僕の転職への意欲はたちまち失せた。内部からみれば不満だらけのあの企業も、世間からはこれほどの羨望の目で見られていたとは。そこへ入社できた幸運をドブに捨てようとするとは、自分はどこまで間抜けで、甘ったれで、世間知らずだったことか。

 

高層ビルの並ぶ新宿の夜景を見上げながら、僕は「もう一度あの会社で頑張ってみよう」と心に決めた。その決断が、さらに自分の精神を蝕んでゆくことになる。

 

続く

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ADHDとして生きるということ⑪ 新人研修

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バブルの真っ盛りだった80年代後半の4月、大手企業に就職した僕は、社会人としての第一歩を踏み出した。

 

入社時に着ていた背広はオーダーメイドの三つ揃えだった。服に無頓着な僕を心配した親が、お金を振り込んでくれた上に、「そんなにすごい会社に入るんだから、オーダーメイドじゃないと笑われるよ」と念を押したためだった。結論から言えば、この両親のアドバイスはとんだ勘違いとなってしまう。むしろ僕は、仕事もできないのにそんなものを着て「笑われてしまう」のだが、この時点ではまだ知る由もない。

 

その後30年にも及ぶ社会人生活の中で、僕は笑われるだけではなく嫌われ続けた。軽蔑され、バカにされ、容赦なく心をズタズタにされた。何度も繰り返すようだが、当時はまだ「発達障害」という言葉さえ存在していない。そんな時代の企業に、整理整頓もできず、空気も読めず、ミスや物忘ればかりしている重度のADHDが迷い込んできたらどういうことになるか。これからじっくりと打ち明けてゆきたい。

 

入社式を終えた翌日から、僕らは新人研修を受けさせられた。人事部の教育担当者によるリードはとても巧みで、全員が大いにモチベーションを高めていったが、僕にとっては自己評価を下げてゆくばかりの毎日だった。

 

初日には家族構成を記す書類の提出を求められたが、親兄弟の生年月日を誰ひとり記憶していなかったのは僕だけだった。一般常識を問うテストの点数もひどいもので、同期のなかには「これでいいのか」と露骨に叱りつけてくる者もいた。極めつけは役員による講演の感想をまとめたレポートで、僕は講師の「部長」の肩書を「課長」と間違え、人事担当者を唖然とさせてしまう。それどころか、そもそも僕は「部長と課長のどっちが偉いか」も知らなかったのだ。

 

研修とはいえ、毎日を会社で過ごすのは疲れるものだが、それが終わってもプライバシーはなかった。なぜなら僕は社員寮に入寮していたからだ。

 

くたくたで過ごす休日であっても、夜になれば誰かしらの部屋で酒盛りが始まる。夕暮れ時に部屋のドアがノックされたが最後、新人が先輩の誘いを断る権利はない。酒が飲めない僕には耐えがたい苦痛だったが、1980年代の企業では、この手のパワハラは当り前だった。次から次へと酒をつがれ、飲み干しているうちに時間の感覚もなくなり、お開きの頃には午前零時を回っている。それから自室へと戻り、酔っぱらった頭で研修のレポートを書き上げるようなこともよくあった。

 

半月も過ぎると座学中心の研修は終わり、それぞれが営業所に仮配属され、実地の業務を学ぶことになる。僕は埼玉県の支社へ行くよう申し付けられた。寮のある東京郊外から、電車を乗り継いで一時間もかかる場所だった。

 

始業時間は9時だったが、新人は一時間以上も早く出社し、無償奉仕で商品の整理をするのが慣習だった。余裕をもって出勤できるよう、毎朝5時半に目覚ましを鳴らしていたが、この支社も酒のつき合いが激しく、前日に眠ったのは午前2時だったりする。頭はいつも二日酔いでふらふらだった。

 

ただでさえ作業記憶の劣るADHDが、そんな状態で仕事ができる訳がない。配属からわずか一週間で、僕は同期で最低の劣等生という烙印を押されてしまう。

 

データの通信インフラがほとんど皆無なこの時代では、あらゆる業務が膨大なペーパーのやり取りで交わされる。それを一枚でも失くそうものなら、甚大な金銭的被害や信用問題にもなりかねないのだが、僕はそれを頻繁にやらかした。電話応対の傍らで商品整理などを行っていると、通話内容を書いたメモを商品棚に置き忘れてしまう。探しているうちに電話が鳴り、今度は商品の在庫チェック表を失くしてしまうといった具合だ。

 

発送伝票や受領書など、シャレにならない物もよく失くした。一度などは、高額商品の事前予約書を置き忘れ、それを来店中のお客様に発見されるという失態をやらかしたこともある。ペーパーの扱いでさえこの有様なのだから、口頭の指示や説明などまったく頭に入らない。文字通り、三歩も歩けばことごとく忘れてしまうのだ。上司や先輩もさすがに呆れ、僕を事あるごとにバカ呼ばわりした。同期やお客様の前でもお構いなしだった。

 

昨年入社のある先輩は、僕があまりに物覚えが悪いのを見兼ねて、僕だけのためのマニュアルを作ってきた。わざわざ勤務時間外に骨を折ってくれた力作だ。本来なら素直に感謝すべきなのに、僕はその気遣いを理解できず、侮辱と受け取って腹を立てた。自分が「そこまで仕事ができない」と見なされていることが情けなくて、思わず彼を逆恨みしてしまったのだ。露骨に嫌な顔をしたのが相手にも伝わり、以後、この先輩から事あるごとにハラスメントを受けるようになってしまう。

 

月日はあっという間に過ぎて行ったが、僕の能力に向上はみられなかった。そしてある日、さらに前代未聞の致命的なミスをやらかしてしまう。

 

月末が近くなると、営業担当者は各取引先を訪問し、集金業務を行っていた。その場で小切手を回収し、領収書を切ってゆく仕事だが、新人もそれに同行するよう伝えられた。小切手の額面はどれも高額で、数百万円や数千万円のものがざらにある。社会に出たばかりの僕らにとっては、かなりの緊張を強いられる金額だ。もしかしたら、そのような金銭感覚を身につけさせるという人事部の狙いもあったのかもしれない。

 

一日に集金をかける取引先は七、八社ほどだが、新人はそのうち半分くらいの小切手を受け取り、領収書を切らされる。ところが、僕だけは「荷が重いだろう」とみなされてしまい、たった一社だけの集金を「体験させてやる」ことになった。耐えがたい屈辱だったが、同時に意地のようなものも湧いてきた。そこまでバカにされているなら、なおのこと絶対にしくじったりするものか。

 

ところが、そんな意気込みとは関係なく、やっぱりADHDはミスをしてしまうのだった。

 

何度も小切手を見つめたのに、領収書に書き込んだ金額を間違えてしまった。妙に緊張しすぎたのが災いして、頭が真っ白になってしまったのだろうか。この間違いに気づいたのは、夕刻に帰社し、回収した小切手と領収書の複写を上司と照合したときだった。僕と同行した上司は「私のチェックミスです」と言い残し、もう日が暮れた時刻にも関わらず、電車で2時間かかる取引先まで謝まりに行った。

 

僕は完全に孤立した。上司や先輩らのあらゆる暴言は指導として正当化され、日を追うごとにエスカレートしていった。酒には毎日のように誘われたが、僕のグラスには集中的に酒が注がれ、飲み干すことを強要された。悪名高い昭和の時代の一気飲みだ。彼らにしてみれば、そうすることで僕の学生気分を叩き直しているつもりになっていたらしい

 

僕は断らずに飲み続けた。酔いにまかせて店内で歌い、踊り、懸命に場を盛り上げた。そうでもしなかったら、日中のハラスメントがいっそう激しくなるのは目に見えている。もう、なりふり構っている場合ではなかった。

 

ゴールデンウィークの休日には、渋谷や池袋のデパートへ行き、ひとり屋上で呆然としながら日暮れまで過ごした。楽しそうな家族連れを眺めているうちに、これまでの人生のいろいろな場面がよみがえってくる。田舎から上京して遊んだ上野動物園や、初めてみた千葉県の海。幼稚園にあがる前までは、父や母もあんなふうに子煩悩だったっけ——

 

ふと横を見ると、ベンチに座り、膝にノートを広げて詩を書いている女性が目に留まる。僕は思い切って声をかけた。心に同じような傷を負った人なのかな、と勝手に思い込んでのことだったが、相手は怯えて逃げ去って行った。よく考えれば、こんな乱暴なナンパが失敗するのは当り前だったが、もはや僕には正常な判断力が奪われている。精神に異常をきたしているのが自分でも分かった。

 

現在であれば、こんな状態なら迷わず心療内科に駆け込んでいたことだろう。だが、この時代の精神病院はいろいろな意味で敷居が高い場所だった。カウンセラーや心理士のような職種もほとんど社会に浸透していなかったと思う。当時でも、五月頃になると有名大学を出た新入社員が突然退社し、そのままフリーターや引きこもりになってしまう問題が社会現象として報じられていたが、たいていは「今どきの若者は忍耐力がない」のひと言で片付けられていた。まともな社会生活を送れない者は、すべて本人の甘えと決めつけられてしまう風潮が蔓延していたのだ。

 

そんな時代にあって、数少ないセーフティーネットとして機能していたのが命の電話だった。

 

ゴールデンウィークの終わり頃には、僕は希死念慮を強く意識するようになっていた。何のために生きているのかよく分からず、さりとて能力のなにもない人間が転職してやり直せるとも思えなくて、いっそ楽になってしまったほうがましだと思った。大学時代の友人と連絡をとることはあったが、彼らもまた慣れない社会人生活に四苦八苦しており、こちらの悩みを聞くだけの余裕はない。八方塞がりで精神的な限界に追い詰められたとき、ふとテレビでみた命の電話のことを思い出した。

 

ところが僕にとって、これは簡単に利用できる制度ではなかった。理由は極めて単純で、1980年代には携帯電話もスマホも存在しなかった。それなら固定電話でということになるのだが、社員寮には部屋ごとの電話は設置されておらず、舎監室の前に共用電話があるだけだ。こんな場所で「僕もう死にたいんです」などと通話を交わせば、即座に舎監経由で人事部へ通告されてしまう。しかたがないので、僕は寮に近い公衆電話のボックスに入り、いのちの電話へ相談することにした。

 

できることなら、悩みを何時間でも聞いて欲しい。その公衆電話はテレホンカードを使えなかったので、僕はゲームセンターで札を両替し、百円玉をたくさん用意していた。それらを電話機の本体に積み上げ、タウンページで番号を調べる。よほど閲覧者が多いのか、ページを開くと、すぐにいのちの電話の番号が大きく掲載されているのが見つかった。

 

緊張と期待が入り混じったまま意を決し、ダイヤルを廻す。が、受話器からは「話し中」を告げる発信音が聞こえてきた。しかたがないので、ボックスに入ったまま五分ほど待ってまた掛ける。今度もまた話し中。さらに五分、十分と待って繰り返しても、やっぱり電話は繋がらない。しかたがないのでいったん寮に戻り、一時間ほど暇つぶしをしてから再び電話ボックスへ。さっきと同じように何度も試してみたが、ひたすら話し中の状態が続くばかりだった。

 

それでも諦めきれなかった僕は、三度目、四度目と、寮と電話ボックスの間を往復した。五月とはいえ、夕刻を過ぎれば一気に冷えこんでくる。やがて陽が落ち、あたりが真っ暗になっても、僕は洟をすすりながら電話ボックスへと向かった。そこまでやっても、いのちの電話はとうとう最後まで繋がらなかった。

 

がっかりして帰ろうとしたとき、タウンページには命の電話以外にもいくつかのカウンセリング機関が掲載されているのに気づいた。藁にもすがる思いでダイヤルを廻すと、どこかの寺の住職がやっている電話相談に繋がった。「こんな時間に電話してきて非常識だ」と一喝しながらも、住職は僕の相手をしてくれた。もっとも、ほとんど相手が説教するばかりのスタイルは「カウンセリング」とはほど遠く、聞いているうちに疲れてくる。僕の仕事の悩みから脱線して、住職の話はどんどんスケールが広がり、最後は人類救済の大風呂敷まで広げてきた。もしかしたら仏教を装う新興宗教かとも思ったが、入信の勧誘をしてくるようなことはなかった。

 

少々胡散臭い電話相談ではあったが、誰かに話を聞いてもらえただけでも元気が出た。僕はその日の命を繋ぐことができた。

 

続く

 

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